「これまで味わったことのないおいしい水」を汲みに山へ登る
店主は20年近くかけてこの登山道を整備し、あちこちに自作のベンチや手すりや作っていった。そこに費やされた時間の途方もなさを想像しながらさらに登っていく。つづら折りのようになった山道を、息を切らしながら登っていくと、水の流れる音が聞こえる。そちらへ近づいてみると岩の隙間からパイプが伸びており、その先から勢いよく水が流れ出している。
ひと口飲む。がんばって登ってきたせいもあってか、痺れるほどにうまい。ちょうどリュックの中に空のペットボトルが入っていたのでそこに水を汲ませてもらった。
さらにしばらく登っていくと、その先に人影が。登山道の整備作業を行っていた店主に出会うことができた。
店主はお店が休みの日はほぼ毎回、朝の5時から山に来て作業を進めているという。77歳という年齢で、つい最近膝を痛めて手術をしたばかりなのである。なんとタフなのか。今は登山道の安全性を高めるために道の際を木で補強しているところらしい。
生きた木は切らず、既成の木材も使わず、山の倒木や岩だけを利用して作業するのが店主のポリシー。斜面に倒れた木を慎重に下へおろしながら、必要な場所へ導いていくのにコツがいるという。「手伝っていく?」とおっしゃるのを丁重にお断りして、邪魔にならぬよう先を急ぐことにした。
すると、店主と一緒に作業をしてた井伊恒子さんという方が「少しそこまで行きましょうか」と登山道を案内してくださることになった。
井伊さんは2年ほど前から登山道の整備作業を手伝い始めたという。その経緯について話を聞いてみて驚いた。さっき私が汲んできた山の水がきっかけだったというのだ。
井伊さんは幼い頃から水道の水が体に合わず、おいしい水を探していたのだという。しかし浄水器を使ってみてもしっくりこず、これというものに出会えないまま数十年の月日が経ってしまった。この山の近くに住むようになってしばらくして、知人の勧めもあって山登りを始めた。それが3年ほど前のこと。それまではちょっと近所に行くのでも自転車に乗るぐらい、歩くのが嫌いだったんだそうだ。
いい運動になるかと始めた山登りをしばらくつづけるうち、山で知り合った仲間に、「いい水場がある」と案内してもらった。ひと口飲んでみると、これまで味わったことのないおいしさを感じたという。以来、井伊さんは毎日水を汲みに山に登るようになった。台風やよっぽど激しい雷雨でもない限り、ほぼ毎日、山に来て水を汲む。飲み水としてはもちろん、料理に使うのもその水だ。それがさっきの水なのである。
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