「椎名林檎と比べられる時代は終わらない」あいみょん、Awich、新しい学校のリーダーズ…椎名林檎が歌ったフェミニズムの影響とは?
本記事のタイトルを見て「?」と思った方もいるかもしれない。椎名林檎の歩みは、一見するとフェミニズムの運動とは遠いように思う。しかし最新作の『放生会』では、多かれ少なかれ彼女に影響を受けた若い世代の女性アーティストが多数参加し、それぞれ強烈なメッセージを発していた。それはまさしくひとつの「運動」であった。ひとりの女の一生を歌う言葉から社会の現実を映し出してきた椎名林檎という傑出したアーティストについて、今改めて考えてみたい。
ポスト・椎名林檎のJ-POPシーン
かつてあいみょんは椎名林檎の音楽性と比較され批判を受けた際に「女性ボーカルが椎名林檎さんと比べられる時代は終わらないな。素晴らしい方やもん、比べられても困る。」と語っていたが、本当にそのとおりで、今なお椎名の影響を感じさせる音楽は多いし、実際にアーティストが椎名のファンを公言している場面もよく見かける。最新作『放生会』では参加した若い世代の女性アーティストの表現が、驚くほどに椎名の曲にはまっており、これは椎名林檎作品をよく聴いてきたからこそのものだと感じた。
興味深いのは「椎名林檎っぽい」と言われてきた女性アーティストの顔を思い浮かべてみると、案外彼女たちの音楽性は同じ枠にくくれるわけでもないということで、それだけ椎名が生み出してきたものが“女”の真理を突くものだったのだろうと思う。
たしかに椎名林檎作品を紐解いてみると、どこにでもいそうな“普通”の女の姿が見えてくる。それは、オルタナティブなバンドサウンドに文学チックな歌詞を乗せた『無罪モラトリアム』や『勝訴ストリップ』、出産後初となるフルアルバムであり大正・昭和文学の要素をさらに色濃く反映させた『加爾基 精液 栗ノ花』に顕著だ。その実験的な音楽の奥には、性の刺激を知ってしまった女の悦びや戸惑い、そこから始まる「女としての人生」がある。
「女の子」から「女」へ「女」から「母親」へ──精神的にも肉体的にも変化していくことの焦燥、寂しさ、喜び、加えて“ひとりの女”が持つ多面性を表現してみせたのが椎名林檎だった。
『無罪〜』では<あの日飛び出した此の街と君が正しかったのにね>(「正しい街」)や<ヘッドフォンを耳に充てる/アイルランドの少女が歌う/夕暮れには切な過ぎる/涙を誘い出しているの?>(「茜さす 帰路照らされど…」)と何かと内省的で初々しかったものの、『勝訴〜』になると<あたしが完全に溶けたらすぐきちんと召し上がれ>(「浴室」) と本能的な欲望を顕にしたり、<「不穏な悲鳴を愛さないで/未来等 見ないで/確信出来る 現在だけ 重ねて/あたしの名前をちゃんと呼んで/身体を触って 必要なのは 是だけ 認めて」>(「罪と罰」)とすがるようになる。
それから約3年が経った『加爾基〜』では、張り詰めた空気が漂うなか<憂き世に居た堪れない悲劇が溢れたとしやう/大人だから今日はまう唄ふ位 笑う位許してね/守るものは護るさ>(「おだいじに」)と誓ったり、時に<―嗚呼 痛い思いをしたいのに><操作して頂戴/退屈が忌ま忌ましい>(「やっつけ仕事」)と失ったものを思い、嘆いたりする。
筆者から見てそうした彼女の音楽変遷は、80年代に戸川純が社会批評的な目線で描いた女性像からさらに線を足して“果たして女の人生とはなんなのか”という問いに対する答えを導き出そうとしているように見える。またその音楽性には、自分の人生を生きようとする強かさがありながらも、それでも拭い去れない弱さがあったのだった。
きっと多くの女性たちは、椎名が表現してきた好きな男に対する女の複雑な心情に、その悲鳴の奥にある切実さに、それでいてけっして脆さを武器としない凛とした姿勢に、共鳴したのではないだろうか。今こうして聴き直してみると、彼女の曲は初期のころから女性をエンパワーメントするものがあった。
椎名のエッセンスを受け継いだあいみょん
そして後進のアーティストたちがあとを追い、女の表現は徐々に禁忌が解かれていく。彼女たちは、技法や種類を変え、時に交わり合いながら次々と線を足していき、今では巨大なキャンバスの上でさまざまな女の絵が描かれている。
たとえば、過去に音楽系WEBマガジンで「あいみょんを聴くと、椎名林檎ってすげーんだな。って」と書かれたこともあるあいみょんの音楽性は、椎名のエッセンスを受け取りながらさらにその“普遍性”に磨きがかけられている。初期曲「貴方解剖純愛歌 ~死ね~」は過激な歌詞だったために各局から自粛されたそうだが、いずれにしてもどの曲の中にもモラトリアムの渦中で懸命に生きる女の子たちがいた。
その後さらにその音楽性は研ぎ澄まされていき、今ではまるで小さなアパートで繰り広げられる若者たちの生活を切り取ったかのような風通しのよさがある。極めてナチュラルに人間の性を語りながら、時に甘く官能的な香りを忍ばせる。特筆したいのは「満月の夜なら」で、軽快なギターにのせて歌われる恋人たちのセックス描写は、これは青春の一部に過ぎないと言わんばかりの爽やかな印象を受ける。彼女は椎名の音楽性からもう少しラフな響きを持たせながら男女の本質を歌っていて、それはあまりにもさりげないのだが、でも確実に女の表現の在り方を広げている。
女の表現には制約が多い。愛にまつわる複雑な乙女心を言葉にしてみればそれはエキセントリックなものとして受け取られ“情念系”、“不思議ちゃん”、“メンヘラ”などと一線を引かれがちだった。デビュー当時のあいみょんもまた情念系アーティストという枠で椎名と比較されたのだろう。その制約によって見落とされてきた女の真実はどれほどあるだろうか。
特に「女と性愛」は(誰もが望んでいるかは別として)あまりにも密接であるにもかかわらず、女性が自らのペンで明言することはタブー視されてきた。瀬地山角は、1992年『フェミニズムの主張』において、性は普段隠されている部分を人前に晒す行為であるために“恥じらい”や“躊躇”が生じやすく、また非常に動物的な側面を持つものであることから、人間的な上品な振る舞いはしばしば性に対する抑制を要求すると指摘した。そして「このような躊躇・抑制は多くの場合、女性により多く要請される」とし、「こうした理由から、性を表に出すことへの躊躇とともに、実際に表に出してしまう人間への否定的感情が導かれることになるのである」(※『フェミニズムの主張』「第二章 よりよい性の商品化へ向けて[瀬地山角]」/編集:江原由美子(勁草書房)と論じている。
今もなお口に出そうものなら賛否が巻き起こるのだから、その価値観は底流していることは否めない。そうしたなかでヒップホップがオーバーグラウンドでも存在感をみせ、MeToo運動以降のフェミニズムムーブメントが盛り上がっていった先で、“媚びないエロス”を謳うAwichという存在がメジャーに進出し、あらゆる方面から支持されていったことは世の空気が変わっていることを決定づけた出来事だったように思う。
そして、Awichの強気なフロウへ
たとえば大胆なダブルミーニングを含む「口に出して」が、ヘッズに限らず若年層を中心に心をつかんだのは、それだけ世の女性たちの小さな声が世間に届くようになったからだろう。さらに言うならば、この社会にはまだまだ性的目的だけで女に近づこうとする人間がいて、消費“した”側ではなく“された”側を蔑む輩がいて、そうした社会に傷ついてきた女性たちがいるという、その悲しき事実を誰もが認知しているということだ。女性たちは痛みを分かち合い、男性たちはそんな彼女たちを理解しようと思いを馳せている。だから冷酷なようにも響くAwichの強気なフロウに多くが共鳴し、アリーナで大合唱が生まれるほどの連帯が生まれているのだろう。
それは前述したようにヒップホップの大勢とフェミニズムムーブメントの影響が大きいはずだが、他方で日本のポップミュージックシーンで女性像を拡張させていったアーティストたちの功績によるものもあったのではないだろうか。なによりその土台となった椎名のような存在が、“女の人生”を描き、それが世代を超えて女性たちから共感され、その末に『NHK紅白歌合戦』の常連となり、さらには東京五輪の開会式・閉会式の演出にも抜擢され、長い年月をかけて国民的アーティストの地位を獲得したことも地続きになっているような気がしてならない。
「若いときの椎名林檎みたい」と言われたSUZUKA
そう考えると新しい学校のリーダーズがブレイクしたことも必然に思える。『放生会』にも参加しているリーダーズ。椎名は本作の参加アーティストについて「今回は自分に近いミュージシャン気質の方ばかりにお越し願いました。」という。またメインボーカルを張ることが多いメンバー・SUZUKAについてはこう話す。
周りのミュージシャンはSUZUKAちゃんのことを「若いときの椎名林檎みたい」と言ってくれるんですよ。わっち(伊澤一葉)とか、私の当時を知ってる人は。
椎名林檎「放生会」インタビュー|7人の歌姫たちとの共闘に迫る https://natalie.mu/music/pp/sheenaringo09
加えてリーダーズは、『コーチェラ』でAwichとも共演した。リーダーズとAwich。音楽性は違えど、両者のスタンスは近いものがある。リーダーズは社会の規律に中指を立てるように「個性」と「自由」を主張する。奇抜なダンスとクールな佇まいは、無垢の象徴とされがちなセーラー服のイメージを覆すものだ。庇護欲を刺激するか弱さはなく、むしろこちらを引っ張っていくような力強さすらある。
一方で、ブレイクのきっかけにもなった「オトナブルー」には「少女の性的搾取ではないか」という声もあるようだ。「子供」から「女」へと変わろうとしている少女が<わかってる しいんでしょ? 艶やかな この唇>と自身の性的魅力をアピールするこの曲。確かにかつて「ブルセラ女子高生」が世間の注目を集めたことや、その後もあらゆるメディアで女子高生的なものが好奇な扱われ方をされてきたことを考えれば、危惧したくなる気持ちもわからなくはない。
ただ、筆者からみればこの曲は女子高生という存在の性的側面に対するアンチテーゼのように見える。奇抜なダンス、クールな佇まい、自ら性について語る姿勢。特にSUZUKAの表情は個性的で時に恐ろしくもあり、男性の性的な対象となることを意識しているとは言い難い。どちらかといえばギャル雑誌で女子高生たちが自ら性体験を語っていたあの主体性に近いものがあるように思えるのだ。鈴木涼美はギャルブームを担った雑誌『egg』について「オヤジ週刊誌で幾度も特集が組まれた女子高生の性的側面すらも、自分らが主体の雑誌の中で扱い、勝手に外から語られる自分らの印象を無害化した」(※『JJとその時代 女のコは雑誌に何を夢見たのか』(鈴木 涼美/光文社新書))というが、そのような側面がリーダーズにもある。
外見においていえば、当時のギャル的な過剰な派手さはなく、一見普遍的な女子高生の姿をしているが、そこには外見でレッテルを貼りがちな社会に対する批判や、どんな若い女性にもそれぞれの「自由」や「個性」があるというメッセージも含まれているのかもしれない。そういった点をふまえると、Awichをはじめとしたラッパーたちから派生した新たな表現ともいえるのではないだろうか。
ひとりの女の人生と、社会が接続する
ではそうした潮流が巻き起こっているなかで、現在の椎名の音楽はといえば、アルバムを通して女の生涯をそのまま映し出すような壮大さがある。『放生会』のインタビュー(※同上)では「デュエット時はどうしても自然に、お相手と自分の共通項に焦点を当ててしまうものだと思うんです」と語っているが、それもあってかこれだけ多種多様なメンツがそろっているにもかかわらず、まるでひとりの女の人生をのぞいているかのような感覚にさせられる。女の多面性を魅力的に描くその姿勢には「女を簡単にわかってくれるな」という反骨精神すら感じるのは筆者だけだろうか。さまざまなアーティストが新たな女性像を次々描くなかで、椎名の描くそれもまた変化し続けている。
社会は今、牛歩のスピードではあるが成熟していて、それゆえに女の幸せはどんどん複雑に枝分かれし、SNSでは日々あらゆる主義主張が散見される。愛し愛されるだけが幸せとは限らず、女性たちが持つ欲や意識もそれぞれ微妙に違う。そのために、異性と同性という対だけでなく、同じ痛みを分かち合っているはずの同性同士で激しく議論する場面もしばしば見られる。この社会において女という立場は、どうしても不安定で危うさがつきまとう。
そうしたなかで数々の女性アーティストが、ときに不条理に怒り悲しみ、ときに女であることを祝福しながら、多様な女性像を描いているのはなんと心強いことだろう。彼女たちは女のどの部分を表現し、それに対して世間はどう反応を示すのか。そのすべてを通して、私たちは社会の現状と女の複雑さを知ることができるのだ。そしてそんな現在のポップミュージックシーンにおいて、椎名林檎が始めた表現が多大な影響を与えていることは間違いない。
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