【新連載】大島育宙のドラマ脳内再放送 #1大豆田とわ子と三人の元夫といなくならない親友


今月から新たに始まる「大島育宙のドラマ脳内再放送」は、歴代の傑作ドラマを当時の視聴者と一緒に脳内で再放送(=プレイバック)する“ドラマ論考”連載である。連載の書き手であり当代随一のドラマウォッチャー・大島育宙が記念すべき第1回に選んだのは『大豆田とわ子と三人の元夫』(カンテレ・フジテレビ)。3年前の今クールに大ムーブメントを起こした坂元裕二脚本作品だ。大傑作ぞろいの脚本家は『大豆田とわ子』に何を託したのか。完結ドラマに新たな解釈を、そしてそこに生まれるささやかなカタルシスを楽しんでほしい。

恋が終わり、作品ははじまる

恋の入口や往路に気分が弾むのは当たり前だ。

恋の帰り道も、去り際も、後日談も、鮮やかに色づき得るか?

それが近年の坂元裕二ドラマのメイン・テーマだ。

今や私たちは妙に慣れてしまっているが、近年の坂元ラブストーリーのタイトルは、実に変だ。タイトルの時点で恋愛の終わりが示唆どころか明言されてばかりいるのだ。

そんな前兆に続いて『大豆田とわ子と三人の元夫』というタイトルがやってきたものだから、熱心な坂元裕二ウォッチャーほど面食らわなかった。「三人の元夫」というタイトルを見て戸惑った人は、その時点でニワカだったといっていい。三谷幸喜の『竜馬の妻とその夫と愛人』を彷彿とさせるトリッキーなタイトルだが、それほどのインパクトで騒がれなかったのは、坂元裕二が恋の終わりを描く作家であることが半ば常識になっていたからだ。

『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』(フジテレビ)は恋が終わったことが断言されているタイトルだし、『花束みたいな恋をした』だって控えめでこそあるが「した」という過去形が引っかかるように仕組まれている。『最高の離婚』(フジテレビ)なんてもう、説明不要だ。タイトルからもうあらすじが始まっているし、終わっている。

『大豆田とわ子と三人の元夫』は三度の離婚を経て中堅建築事務所の社長/シングルマザーとして生きるとわ子(松たか子)が三者三様に一長一短で未練タラタラの夫たち(岡田将生、角田晃広、松田龍平)と繰り広げるリアルすぎる軽妙な大人のラブ・コメディだ。前半は。

若くしてトレンディドラマのヒットメーカーとなった坂元裕二の初期作と違うのは、大人の余裕だ。何かに追われるように、義務のように、同調圧力や性欲、虚栄心に駆られた恋愛はそこにはない。恋愛市場から卒業した女性主人公。卒業できているようなポーズで格好つけたいけど未練を隠しきれない、そんな元夫たちとのグラデーションが滑稽なキャラクター・ドラマだ。前半は。

もう進展しようのない、予定調和で宙ぶらりんな恋愛相関図が半永久的に繰り返される舞台設定。三人の元夫たちも、とわ子以外に恋愛の回路を持っている、簡単にいえば、みんな普通にモテる。いくらでも反復できる、もはや牧歌的とさえいえる強固な構造ができ上がっている。同じ矢印が濃くなったり薄くなったりするだけで「大人の恋愛サザエさん」ができるんじゃないか。そう思えてしまうくらいおもしろいのだが、そんなぬるま湯を坂元裕二が用意するはずもなかった。

人生とは“今を生きる”だけではなく

中年の離婚後の主人公群を設定する「陽」のメリットは、大人の余裕で予定調和を描けることだ。そして「陰」のメリットは「人生をうしろから想うリアリティ」、つまり「死」の話ができることだ。

『大豆田とわ子と三人の元夫』というドラマ、繰り返し観れば観るほど、あまりに死の臭いに満ちている。

1話で母の死のエピソードが早々に語られる。

6話で突然、親友を喪う。

7話で元夫らの体調を急に気遣う。

8話で新たな恋人候補から死生観を諭される。

10(最終)話で亡母の想い人に逢いに行く。

恋愛や値踏みから解放された「ひとりで生きていける」強い女性主人公が、母の死と向き合いきれずに生きていて、親友の喪失をきっかけに自分の生をも再定義する話なのだ。

三人の元夫は対等に魅力的だが、脚本家から任された仕事量は対等ではない。6話で突然退場するとわ子の親友・綿来かごめ(市川美日子)と恋愛の入り口に立ったひとり目の元夫・田中八作(松田龍平)が、物語における役割を頭ひとつ多く担っている。

脇キャラだったかごめがドラマ後半で唐突に喪われる。病院に駆けつける八作ととわ子の会話で間接的に淡々と描かれただけだったこともあり、視聴者は衝撃を受けた。恋愛や労働に生きづらさを抱えるかごめの人生が突如終わったことで、「マイノリティなキャラクターが尊重なく物語から退場させられた」という声もあった。しかし放送から3年経ってみて、私はむしろ、かごめは6話からとわ子とダブル主人公になったように感じるのだ。

三つの恋と結婚を終わらせて、一人で生きていけるはずのとわ子が、それでも「小さなことがちょっと疲れる。そういうときに私、一人で生きるのが苦手なほうなんだな、と思う」(8話)のは、やはり親友と娘が遠くに離れてからだ。一人で生きていける自分の生を単線的に捉える人生観に限界を感じる、大豆田とわ子。

終わったこと、喪ったものよりも、今そこにあること、目に見えるものを優先してしまう世界観が揺らぐ。こんなにがんばってきたのに、こんなにうまくやってるのに、それでも人生を逃げきれない、孤独な虚ろが待ち受ける。映画やドラマを観るときに感情移入はしない、と公言する坂元裕二にとって、モテるし仕事もできる主人公設定はなんら挑戦ではない。そんな視聴者の共感を拒否するとわ子でさえ逃れられない「一人で最後まで生きていけるのか?」というぼんやりとした不安は、きっと人を選ばない。

今そこにある、目に見える、手で直に触れるものごとに気を取られるまっすぐな人生。そんな即時的、即物的なごく普通の人生観を疑うのが坂元会話劇だ。とわ子の前に恋愛候補者/敵対的買収者としてさながら二重人格か双子のように分裂的に登場する小鳥遊(オダギリジョー)のセリフがとわ子に示唆を与える。

「人間は、現在だけを生きてるんじゃない。5歳、10歳、20歳、30、40。その時その時を、人は懸命に生きていて。それは別に、過ぎ去ってしまったものなんかじゃなくて。あなたが笑っている彼女を見たことがあるなら、彼女は今も笑っているし、5歳のあなたと5歳の彼女は、今も手をつないでいて。今からだって、いつだって気持ちを伝えることができる」(7話)。

小鳥遊はヤングケアラーとして「人生のない期間」があったと語る。拾ってくれた社長に服従し、結婚まで支配されそうになるが、とわ子との対話によって分断された人生を統合し、自由になっていく。

どこにでもある、を描ききる坂本裕二のすごみ

ドラマ評に似つかわしくないひどく思索的/観念的な話を一瞬だけさせてもらうと、これは「遍在」の肯定だ。あまねく、ある。どこにでも行き渡って、ある。1杯のカレーで助けてくれた社長に支配された人格と、とわ子と恋する人格を半ば自傷的に分断していた小鳥遊は、とわ子が用意したカレー1杯で解放される。とわ子はテンションが上がってカレーを作った日に、冷凍庫から古いカレーを発見し「過去から復讐」されているのだが。

人格を強引に分断しなくていいように、時間の流れも杓子定規じゃなくていいのだ。思い出はタイムラインのどこにあってもいい。同時にあっていい。遍在。

一直線のタイムラインに抗う遍在の志向は『東京ラブストーリー』(フジテレビ)の有名なセリフにも恋愛観として描かれる。リカ(鈴木保奈美)は「人が人を好きになった瞬間ってずっとずーっと残ってくものだよ。それだけが生きてく勇気になる。暗い夜道を照らす懐中電灯になるよ」と言うし、この恋愛観は坂元ドラマに通底する。最新連ドラ『初恋の悪魔』(日本テレビ)では恋愛観を超えて「遍在」の感覚はより自覚的に描かれた。

昼間は元気だったのに夜に突然逝ってしまったかごめは、お化けになってとわ子の部屋の窓や八作のレストランのドアをガタガタと鳴らすようだ。かごめがもう着ることのないパーカーのひもをとわ子は直してやる。時間は一定ではない。目の前にいない人も、いる。6話で突然喪われたかごめは物語から退場していないのだ。終盤4話は、かごめの死を受け入れるためのとわ子のパラダイム・シフトに費やされる。かごめは退場したのではなく、むしろ大きな「問い」というふたり目の主人公に格上げされたのだと私は思う。

編み上げられた物語は解きがいがある。『大豆田とわ子と三人の元夫』を論考するテキストは世にあふれた。とわ子に長ゼリフで示唆を与える小鳥遊の存在は論じ尽くされた。しかし私はやはり、喪った親友が遍在することを受け入れて、大豆田とわ子という強すぎる主人公が人生観を微変する物語、と読みたい。とわ子は小鳥遊に出逢っていなくても何かのきっかけで人生観を更新した可能性はあるが、かごめを喪わなければ問いに直面することもなかったと考えると、登場シーンこそ少ないものの、やはりかごめはドラマ後半の主人公なのだ。

だから、とわ子が直面する些細な日常の断片は、私たちの生の中にも遍在する。人も思い出も遍在してよい、という強い意志がこれほどまでに漲っているドラマは、ほかにない。

そして野暮ながらつけ加えると、これは現代のテレビドラマのマーケティングとしても圧倒的に正しい。単線的なオチ至上主義のハリウッドメソッド(坂元裕二は過去のインタビューで「アメリカドラマ」と言っている)では、忙しい、多様な趣味に浸る令和人は振り落とされてしまうし、最終話の大オチに賛否両論が巻き起こるリスクが大きくなる。かといってキャラ人気が前提となって語られる一話完結型ドラマは、視聴習慣を作れなければ振り向いてすらもらえず、内輪のいない内輪ノリという悲劇になりやすい。

そんななか、「遍在」スタイルのドラマは最強だ。実際にこのドラマが放送から三年経った今も愛されているのは、毎回オチに新鮮にびっくりするからでも、実家のように落ち着くからでもなく、「なんかあんな思い出あったなあ」とふと思い出すように、「なんか、とわ子があんなことしてたよなあ」と浸れるからではないか。作戦として圧倒的に正しい。でも、これをスマートにできる筆力の持ち主が今のところ、日本のテレビ界には坂元裕二しかいない。だから、似た成功事例がほとんどない。

『大豆田とわ子』の思い出は遍在する。私たちは、忙しく過ぎる日々の中で、何かちょっとしたミスでわーっと叫びたくなったときに、伊藤沙莉のナレーションを自分の名前に置き換える。頭の中で「小指をぶつけてのたうち回る誰々」などと唱えて生きてきた。そうやって、脳内で、再放送は続く。喪った人はいなくならないし、完結したドラマも、終わらない。

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大島育宙(XXCLUB)

1992年生。東京大学法学部卒、お笑いコンビ「XXCLUB」として活動するかたわら、映画やお笑いの文化評論を執筆。YouTubeやPodcast、「週刊フジテレビ批評」、TBSラジオ「こねくと」、などでも最新映画エンタメの時評を更新中。

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