平凡な公立高校で起きた完全犯罪。「黒板消しに陰毛が大量に絡まっていました」<河谷忍「おわらい稼業」第2回>

おわらい稼業

文=河谷 忍 編集=梅山織愛


構成作家・河谷忍による連載「おわらい稼業」。ダイヤモンド、ケビンス、真空ジェシカら若手芸人とともにライブシーンで奮闘する、令和のお笑い青春譚。

偽物の“ワル”が蔓延していた学校に突如、ダークヒーローが現れた。彼が起こした完全犯罪が河谷のありふれた日常を変える。

第1回はこちらから

僕のありふれた日常

春の陽気が去ったかと思うと、みんなが袖口をまくって襟元をゆるめ始めるような日だった。遠くの景色は少しだけ陽炎になっていて、自転車を漕ぐ足にうっすらと汗をかいては制服のスラックスがぴとりと肌に貼りついた。木漏れ日の揺れる石畳に体を揺すられながら国宝のお寺を抜けてすぐの場所に私の通う高校はあった。ここまでの通学を彩ってくれたNICO Touches the Wallsをいったんポケットにしまって校門を抜けると、あふれ返った自転車置き場に愛車を停めて、またポケットからイヤホンを取り出した。通学に対する自分のテンションとは裏腹に低音が心臓に響いた。もう下校までこのiPhone 5をポケットから取り出すことはできない。この高校はスマホの持ち込みはOKだが、授業中に使用することは禁止されていた。

教室に入り見慣れた顔にひと言、ふた言かけながら窓際の自分の席に座ると、いすの冷たさが体温とギャップを起こしてお尻が強張った。この教室はあんなに西陽が入るのに朝陽はまるで入らない。うっすらと風に乗って香ってくるドクダミが今日の始まりを告げると私は少し憂鬱になった。慌てて教室に入ってくる女子生徒は顔を少し赤くして首に汗をかき、そこに張りつくねこじゃらしのようになったうしろ髪をくくり直していた。

流行りのアニメやアイドルの名前が教室を縦横無尽に飛び交うなかで、私は友人と右手をグーにして親指と小指を立てると電話の形を作り、「なんでそうなった……!」の練習に明け暮れていた。もちろん千鳥の『通販』のネタで「雛人形17段セットです」と言われたときのノブさんのツッコミである。たしかもっと首を上下に振っていただとか、実はもっと前に歩み出てきていただとかを繰り返し、私たちの手であまりにも精巧で完璧なノブさんを作ろうとしていた。みんなにとってのBIGBANGやEXOは、私と友人にとってはノブさんだったのである。「もっと本心から言わないとノブにはなれない」「もっと絞り出すように」。当時の私たちはどうすれば完璧なノブさんのそれを言えるのかをひたすらに考えていた。ありふれた日常だった。

スピーカーが音を震わせながら校舎中にチャイムを響かせると、全員がちゃんと席に着く。京都の片田舎にある公立高校でそれなりにやんちゃをしている生徒もいたが、そこまで荒れてしまったわけでもなくみんな至ってまじめな雰囲気だった。先生に軽く反抗する奴もいたし留年すると同時に退学した奴もいたが、みんな人の道に反することはなかった。あのとき学年に蔓延していた中途半端なイキり癖がたまらなく好きだった。みんな穏やかなクセに自分なりのトゲを出そうと必死になっていて、バイク通学禁止なのに友達の家にバイクを停めてそこから歩いて登校したりしていた。バイクで校門には入らない。友達の家に停めて歩いてくるのだ。ジッポライターを持ってくるが、煙草は持っていない奴もいた。ライターは取り上げられても最悪帰りに取り返せるが、煙草を持っていては問題になる。

ダークヒーローによる完全犯罪

1限目が始まる時間になっても先生は教室に来なかった。徐々に教室のざわつきが広がっていくと、私はこのタイミングしかないとスマホを取り出してなめこの栽培アプリを開いた。あと少しですべての種類のなめこをフルコンプリートできそうなのだ。5分後、先生が教室に入ってきた。私はスマホをさっとポケットにしまう。なめこのフルコンは次回に延期となった。先生は教卓に荷物を置くと、あいさつを促す。

「起立」

号令係が眠そうに言うと、いすを引く音が教室にまばらに鳴る。この音は意外と下の階に響くものだ。暑さでスラックスからシャツが出ている生徒に「シャツ、入れようか」と先生は注意すると、全員を軽く見渡して軽くうなずき「はい」と合図を送った。

「礼、着席」

先ほどはまばらだったいすの音は着席時にはきれいなまとまりを持つ。みんないつだって早く座りたい。

先生は教科書を開く前に共有事項をみんなに軽く話した。

「昨日黒板消しに陰毛が大量に絡まっていました、もう二度とこういうことしないように、じゃあ昨日の続きから」

何事もなかったかのように授業が始まった。

「教科書52ページを開いてください」

全員がきょとんとしているなか、先生は淡々と授業を進めていく。私は宇宙にひとりで取り残されたような気分になった。黒板消しに、陰毛が、大量に……? 二度とこういうことしないように……? 先生の口から放たれた言葉をすべて理解するためにはかなりの時間がかかった。全員が何かの聞き間違いだと思ったに違いない。

少しして私は戦慄した。とんでもない奴がいる。このクラスなのか、ほかのクラスなのかはわからないが、この学校には黒板消しに陰毛を大量に絡めた奴がいるのだ。誰がそんなことをしたのかはわからないし、目的すら一切わからないのだが、中途半端な偽物の“ワル”が蔓延していたうちの高校に、突如となく『ダークナイト』版ジョーカーのような本格派ヴィランが現れて、一発喰らわされたような感覚だった。一度本人に会って顔を拝んでみたい、とまで思った。

全員がうっすらと引いていた感覚がある。今考えればそれが当たり前なのだが、当時の私は平凡な毎日の中にジャンル分け不明な事件を起こしてくれた彼がヴィランを超えて超絶技巧のダークヒーローなのではないかとまで思った。誰にも見つからないように教室で陰毛を引きちぎり、誰にも見つからないように黒板消しに絡め、誰にも見つからないように彼は姿を消したのだ。巧妙な完全犯罪だった。明智小五郎や金田一耕助、古畑任三郎でも解決できないような完璧なトリックで彼はこの事件を見事にやってのけたのだった。

その日の授業は何ひとつ頭に入らなかった。何をしていてもその事件のことが頭をよぎった。目的がわからなすぎて考えれば考えるほどおもしろかった。授業中に私だけがブフっと吹き出してまわりが気味悪そうに私を見た。「ごめんなさい、思い出し笑いを」そう言うと、みんなはまた前を向き授業に戻った。どうしてみんな普通でいられるんだ、とこっちこそ気味悪く思った。

冷房を点けるにはまだ早い時期の全開に開かれた窓から少し風が吹いて教室にドクダミが香った。陰毛犯も、きっとどこかの教室で私と同じようにこの風に吹かれていることだろう。ということは陰毛犯自身の陰毛も、この風に吹かれてそよいでいるに違いない。皮肉にも。

「なんでそうなった……!」

私は気がつくと右手で電話の形を作っていた。 本心からの、絞り出すような声だった。

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河谷 忍

(かわたに・しのぶ)1996年生まれ。構成・放送作家、映像ディレクター。構成を手がけたお笑いライブは『ダイヤモンドno寄席』『浦井が一人と『話』が三つ』など多数。映画好き。

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