『人生で大切なことは泥酔に学んだ』に学ぶ父の気持ち
お酒は適度に楽しめば、人生を豊かにするだろう。適度というのは体質の意味で人それぞれとして、楽しいと感じるまでの適量と状態に関して言えば、お酒との付き合い方はなかなか難しい。
「若干アル中」だという僕のマリさんの父。「ああなったらあかんで」と言う母の言葉もむなしく、マリさんも立派な酒飲みへと成長した。栗下直也さんのエッセイ『人生で大切なことは泥酔に学んだ』内の言葉とある日の出来事から、マリさんは父の気持ちを知ったのだった。
ずっとお酒があったわけ
物心ついたころから、いつもお酒がそばにあった。
わたしの父は働き者だが若干アル中で、仕事が終わり帰宅するやいなや、毎夜晩酌にいそしんだ。「パパっ子」だったわたしは、父の膝の上に乗って缶ビールを開けてあげるのが好きだった。ご機嫌の父はビールを2本、3本と飲み干し、そのうち缶チューハイ、焼酎へと移行して、最後は千鳥足で寝室に消えてゆく。
「ああはなったらあかんで」と深いため息をつく母だったが、いつも夕方になれば冷蔵庫のビールを補充し、酒に合うおつまみを毎晩こさえていた。そんな姿をずっと、不思議に思っていた。
しかし、母の願い叶わず、わたしも立派な酒飲みへと成長した。中途半端に酒に強いせいでつい飲み過ぎてしまい、翌朝酔っていたときの言動を思い出して死にたくなることが何度もある。
飲んでいるときのことを覚えていればまだいいほうで、ときにはすっぽりと記憶が抜けていて、どうやって帰ってきたのかもわからず、玄関で息絶えていることも少なくない。泥酔というやつだ。それでも人は学習しないもので、赤提灯に誘われ「生ください」と言っている自分がいる。
栗下直也著『人生で大切なことは泥酔に学んだ』という本を、気がつけば手に取っていた。本作は、作家や政治家、女優など、日本のさまざまな偉人たちの「泥酔」にまつわる話を描いたエッセイだ。
ビール瓶で人を殴ったり、家の戸をぶち壊したり、無銭飲食して友人を置き去りにしたりと、末代まで語り継がれるような凄惨極まりない泥酔失敗談だが、痛快な筆致が思わず笑いを誘う。
「酒を呑む理由は人それぞれだ。気が弱い人のなかには、照れや恥じらいを隠すためにくじらの如く呑んでしまう人がいる」という著者の言葉にはっとする。そのくじらとはわたしのことだ。泥酔するまで飲んでしまうのはいわば照れ隠しのようなもので、欲しいものはお酒ではなくコミュニケーションなのではないだろうか。
先日、兄の結婚式があった。みんな気を遣っているのか、地域性なのか、親戚でお酒を飲む女はわたしだけだった。
宴席でビールを何杯も煽るわたしを、叔父がからかう。「お前はそげん飲んでも顔に出らんで、かわいくないのう!」どっと笑い声が上がった。悪気のないひと言に、淡く傷つくことがある。酒飲みの女はかわいくない、と何度となく言われた苦い記憶が顔を出す。
すると、黙ってビールを飲んでいた父がぼそっとつぶやいた。「お前はどうなってもかわいいよ」。わたしは、父も照れ屋だったことにようやく気づいた。