俳優・古舘寛治 カルロス・ゴーンの日本脱出から考える人質司法の問題点
名バイプレーヤーとして映画やドラマに欠かせない、今もっとも引く手あまたな俳優と言っても過言ではない古舘寛治。そんな彼は、実はツイッターで積極的に政治的な主張を発信している。たとえば、「生活も仕事も政治も地続き。悪い社会じゃ文化芸術どころじゃない」(2020年1月13日のツイートより抜粋)という言葉など。
そんな彼が今回テーマにしたのは、カルロス・ゴーンの日本脱出劇。そこから日本の人質司法の問題点、さらに日本社会に蔓延する「黙っているほうがいい」という風潮について迫ります。
正義が通用しないシニカルが覆う社会
さて、2週間に一度のペースはあっという間だ。書かなきゃいけない。
ほとんどの俳優と同じく私は自営業なもんだからこの時期は確定申告もやらなければいけない。読まなければいけない本も次々とくる。セリフも覚えないといけない。ワークショップの準備もあって、家のゴタゴタしたこともある。となると簡単にニュース報道に置いていかれる。そして忙しいのについSNSもしてしまう。つまり時間がないのだ。
ツイッターで政治的なことを書くと正義を振りかざしているサムイ人間のように受け取られもする。俳優としてはマイナスばかりだろう。そういえば自分が学生の頃には正義ぶった奴は気に入らなかった。そして人はそうならないように、人に疎まれないように振る舞うことを学ぶ。学校では学業よりも集団の中でどう振舞えば自分が損をしないかを学ぶ。「何かおかしいな」と思うことがあっても黙っているほうがいい。全体の空気を常に読む。そうして大人になってゆく。嘘偽りが社会を覆っていることに気づきながら。正義なんてこの世では通用しないのだと。
そうして自然にできた「学び」の仕組みがすべての子供が大人になる過程で通る社会システムとなってしまったとき、その社会は将来的にどうなるのだろうか? 正義など通用しない、シニカルが覆う社会であることは間違いがないだろう。
そう考えると現代社会の歪み、嘘だらけの政治、それに怒らない、変えようともしない国民がとても腑に落ちるのだ。この現状にガッテンなのだ。
カルロス・ゴーンの映画のような脱出劇
そんな国民にガッカリしたのかどうなのか。カルロス・ゴーン氏が驚きの方法で日本を不法に脱出した。
その映画のような脱出劇にも驚かされたが、彼についての事件は今や複雑で、日産内での嫌疑についてはよくわからない。しかし彼の逃げたかった日本の司法制度については興味が湧く。人間は事が自分の身に降りかからないとよく考えないものである。警察に拘束されたことがない限り司法制度についてあまり考えないのが普通だろう。私も幸運にもまだ警察に拘束されたことがない。だから司法制度に関しては、たとえば『それでもボクはやってない』(2006年、監督:周防正行)みたいな映画で触れたことがあるくらいだ。
「推定無罪」という言葉がある。国際人権規約に定められた刑事裁判の原則で、日本国憲法でも保障されているという。「何人も有罪と宣告されるまでは無罪と推定される」というものだ。しかし日本では、有罪が確定するまでに長期間の勾留が可能なのが問題となっている。取り調べに弁護士も同席できないし、家族との接見も禁止できる。逮捕されてから23日間、留置所にひとり拘置されることを想像してみる。
そして事件を複数に分けることによってさらに同じ期間の延長ができる。それで何カ月もひとり拘留され弁護士不在のなかで取り調べを受けるストレスを想像してみる。そして「自白すれば家に帰れる」と言われるのである。やってなくとも「やりました」と言ってしまう気持ちが想像できる。