「夢」が禁じられた未来から、現代にタイムスリップした双子の兄弟・アリスとキルト。国民的オーディション番組の落選組によって結成された弱小6人組ボーイズグループ・8kobrightsに加入したふたりは、あらかじめ運命づけられた解散の日を迎えるまで束の間の夢を見る。
しかしバンコクでのフェス出演をきっかけに、運命は少しずつ変わり始めた──。
「アイドル」の輝きと暴力性を克明に描き出す、芥川賞作家・町屋良平の最新ボーイズグループ小説『IDOL』をQJWebで先行公開!
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町屋良平『IDOL』第1章
キルトがタイムスリップするとこをサトシに見られた。
バンコクで開催された『JAPAN FES 2026』本番直前の出来事だった。
すでにそれぞれの指先にアリスは橙、サトシは緑、キルトは紫のメンバーカラーの差し色が入ったネイルが塗られていて、アリスの双子の弟であるキルトがサトシの目の前で消えた。
六月のバンコクにむせかえる熱もあいまって、サトシの瞳孔でキルトの爪に光る紫が陽炎のように揺れた。
サトシは、「ヒェ……」というような声を出した。
そのまま、五秒ほど黙った。
驚いた表情なのだと思う。現代のひとの表情を読み間違うことはよくあるけれども、目をくりくりさせてその場に居合わせたアリスの方でもなく、消えたキルトの方でもなく、それよりやや奥の方を見ているような感じ。
これはたぶん、混じりっけなしに驚いている。
「違うんだ」
とアリスは言った。
キルトはずっとタイムスリップ仮免中で、試験には合格しているはずだから決まった時間に本来の自分たちが生きているべき時代、つまり七十年後の未来に身体を置いていれば自動的に本免許に昇格されるはずだった。
それなのに何度もそのタイミングを逃して、きょうの二十四時まで過去に身体を置いたままでは仮免失効となり三年間の謹慎処置が下される。
バンコクでのイベント直前にキルトはそのことを思い出し、「ヤベー! ちょっと行ってくる」と言って周囲もろくに確認しないまま未来に戻ったからサトシに見られた。
アリスはなるべく表情に内心のパニックを出さないよう努め、言った。
「これは、違くて、えーとごめんサトシ、誤解しないでほしいんだけど」
「えー! ちょっとー! 消えたんやけどー!」
サトシはいくぶん頓珍漢だと、七十年後からやってきたアリスにもすぐに分かる反応を示した。
あとで聞いたところによると、サトシはその瞬間に「ドッキリ」だと思ったらしい。
しかしアリキルの本来の戸籍がある七十年後にはすでに「ドッキリ」という習慣は廃れている。一応タイムトラベル試験の過程で勉強していたからその存在は知っていたけれど、実際の「ドッキリ」の機微はあまりよく分かっていない。
それでもさっきサトシが言った「えー! ちょっとー! 消えたんやけどー!」が「ドッキリ」のリアクションとしてもかなり間違っていることだけはわかった。
そして動揺するアリスがなんの対策も講じられないまま、あまつさえキルトはこの時代に戻ってくる瞬間までバッチリ、サトシに見られてしまったのだった。
「受かったよー」
キルトはそこにサトシが居ることを認めた。
そして「やべ」と言った。
そのころにはサトシはもうこれは「ドッキリ」ではないことは察したらしく、「え、これライヴかなにかの新しい演出? のお試し? とかそういう感じ?」と言った。
サトシはグループでサブリーダーのポジションにあり、ややマイペースで他のメンバーへの関心が薄い、その割に周りがよく見えていて面倒見がいい。
メンバーの平均が二十二歳という若年層にあるなか、まだしもしっかりしたところがあって実質リーダーのような、裏回しのような立ち回りをすることが多かった。
だから過去人に未来人ということがバレるなら、他のメンバーよりは比較的まだマシといえた。
「アリス! キルト! サトシ! どこ!」
メインマネージャーである伊佐木の声が響いた。まもなく本番だ。三人は顔を見合わせたあと、キルトが咄嗟に「サトシ、あとで説明する」と言い背中をぽんと叩いた。
そのときには既に肚を決めていたらしく、本当のことを人に話すときのための準備信号を身体接触を通して送っていたから、これで本格的にアリスはキルトに激怒することになる。
タイムスリップの現場を見られた。
個室トイレで行えばまず問題ないはずの行為をその移動を面倒くさがって、人に見られかねない場所でそれをした粗忽さ以上に、簡単に過去人を懐柔しようとする、キルトの無計画さと素朴さによりムカついてしまった。
うまく人に頼れない、甘えることができない、そんな孤立しがちな人間が集まって結成された「8koBrights」通称「エコブラ」。
そのメンバーはグローバルに活躍するダンス&ボーカルのグループ結成を目指す大型サバイバルオーディション、通称サバ番で落選した者たちによって構成されていた。
べつにある種の「不器用」な性格がグループのコンセプトにあったわけではなく、番組に呪詛を抱えたまま落選したリーダーのリュウが率先して人選していった結果、しぜんにそうなった。
その中にあってキルトが比較的おおらかで、愛嬌のあるキャラとして認知されていることへの嫉妬もアリスにはあったかもしれない。
未来において「個性」に価値が置かれることはありえず、じっさいに過去に来るまでアリキルのふたりは自分たちの「性格」がどのようなものかすらよく分かっていなかった。
結果アリスが「クールなボスキャラ」でキルトが「奔放な努力家」としてファンに認知されると、お互いがお互いのキャラを羨ましがって、ときどき身体情報を入れ換えて数日それを楽しむなど、ギリギリ遵法だが悪趣味ではある未来人行為を楽しんだりもしていた。
メンバーと合流し、サトシが気が気でないのは明らかだったが、なんとかデビュー曲の「Time9ake」を含む五曲を披露した。MCも含めて出来は普通かそれ以下といったところで、ポジショニングやダンスやボーカルのミスが散見された。
これなら完全生歌への拘りをもう止めればいいとSNSでは時々いわれていたが、生歌はグループ結成時にメンバー随一の実力派であるレンが加入する条件であったため、そのルールを崩すわけにはいかなかった。
本番直後の楽屋でサトシはパフォーマンス直後の上気したテンションで、「で、さっきの! なにのなんなの?」とキルトとアリスを外に連れ出した。放置する汗が日焼け止めとメイクに濁った色でポタポタ顎先から垂れ落ちている。
キルトが「まあまあ、これでも使いなよ」と美容液を含んだトナーパッドを渡すと、ガサツに肌を擦り、サトシはキルトを睨んだ。
*
外に出て建物の裏に入り人目を避けた。
六月とはいえ、バンコクは暑かった。七十年後にはすでにスーツクーラー(インナータイプが主流)で勝手に温度調節してくれるから、そうそう浴びないアジアの熱風を双子はあらためて嗅ぐ。
先ほどまではこれから三日間予定されているステージの初日に緊張していたから、ろくにタイの空気を楽しめていなかった。
あまり良い出来でなかったがなんとか初日のパフォーマンスを終えた解放感でいっぱいになったキルトは「アリスから説明してあげれば」と言い、首にかけたタオルで額の汗を拭った。
「なんで!」
「だって、こういう説明アリスのほうがうまいし」
「だが、信頼のアクションを送ったのはお前のほうだ」
「あ! そうだった!」
「信頼のアクション?」
「しまったな、すっかり誤魔化す気満々だったのに、本番前に本免が取れたことにエモくなってしまい、ついサトシを信頼してしまったのだった」
サトシは自分の発した疑問が無視され勝手に進んでいく会話に完全にムカついた。
七十年後の法律にはタイムトラベラーは原則そのことを過去人に秘して活動すべしという建前こそあるが、実際はそれを話すことじたいは完全にはタブーとされていない。タイムトラベラーと接触した多くの過去人は記憶を消されることになるからだ。
だが、そのことを告白した人間がだれか一人でもほかの過去人とその事実を共有した場合、即免許失効となり再取得はきわめて困難となる。
キルトは本番前に、これから真剣な話をすることを言語外信号によってあらかじめ報せ、自分の話を信じやすくする波動をサトシに送った。
ほんらいは未来の子ども相手に使うもので、不当に傷つくことを防ぐためのコミュニケーションツールに過ぎない製品であり、キルトじしんそれを使ったのは生まれて初めてのことだった。
「サトシ。おれの言うことを信じてくれるよな。じつはさあ、うすうす気づいてた? おれとアリスはさ、タイムトラベラーなのよ。七十年後の未来からきた双子ちゃんってワケ。ごめんね、隠してて」
キルトは言った。
「は?」
サトシは鼻で笑った。鼻で笑うって、こういうことなんだな~、とこの時代に来て初めてアリスは思った。フフッーっと、鼻だけの息が嘲笑の表情とともにアジアの風と混ざった。
「じゃなくて。マジだから。これ。マジマジのマジだから」
そうしてキルトはサトシの首から腕を回し、七十年後にはタブーですらあるスキンシップを図った。
「信頼の紫」を送ってからすでに三時間以上たってしまっているし、実際この信号は過去人に効果があるのか。
いちおう時代に左右されないという研究結果は出ているが、未来人はみな、なんとなくあやしいものと考えている。つねに偽科学あつかいされているグレーな製品ではあるのだ。
だがスキンシップを通してふたたびキルトは「友愛の橙」を試してみた。
するとサトシは言った。
「マ?」
時が止まったかのようだった。
そこへスフゥーッとひとすじ熱い風が吹いて三人の汗がより噴き出た。
「マ?」
キルトはスマホで「マ 単独過去語 二〇二〇年代」と検索した。
そこには「死。「マジ」の略。多くは疑問形として「マ?」と使われる。マジですか? 真面目に言っているのですか?の意。主に二〇二一年~二〇二二年ごろに流通」とあった。検索結果冒頭の「死」というのは「死語」のことで、実際七十年後ではまったく聞かれない言葉だった。
でも二〇二六年のこの時代にしてすでに死語じゃん。
だが過去語マニアであるアリスは内心きわめて興奮していた。サトシは大阪出身である。裏でメンバーといるときにはたまにイントネーションが「西より」になることはあるが、おおむね関東語を喋る。
しかしいまの「マ?」は関東で言われる「マ?」と微妙にニュアンスが違い、「マジ?」のマと「ホンマ?」のマの両方を兼ねたサトシならではのニュアンスだったからかなりレア! 厳密には過去語というより「サトシ語よりの過去語」といった印象だ。
「おう。マ! めちゃマ! 超マ! だね!」
キルトが明らかに間違った使用法で言うとアリスは一瞬で興奮がさめた。
実際、下手に疑われたままでいると過去人のあいだで逆に噂になり、「危ないヤツ」として信じてもらえないまま未来から来たのでは?という疑念が笑い話として共有され、その結果免許失効するケースが意外に多いから、決定的な場面を見られ疑われてしまった場合はまず信じてもらおうとするのがセオリーではあった。冗談でも未来人であるという噂が立つだけでアウトなのだ。
だがエコブラはもともと仲の悪いグループだし、とくにキルトはダンスもボーカルも下手な上にメンバーへのダメ出しは積極的に行うという、未来人のよくない部分を濃く煮詰めたような存在だったから明白に嫌われていた。
七十年分の時代の蓄積とテクノロジーの進化により、客観的事実を把握するのには長けていたが、それを自分で体現できるわけではないのだから、とくに個性の強いボーカリストであるシンイチには蛇蝎のごとく嫌われていた。
「わかった。絶対にだれにも言わない。てか言えない」
サトシはそう約束した。
あまりにも容易く信じた。
サトシは「友愛の橙」と相性のよい身体らしく、いっぽう「信頼の紫」はそれほど利かなかった。こうした情緒補正シグナルの効果はもともとその者の素養に作用されるといわれ、ゼロのものをイチにすることはできないが、イチのものを百にできる可能性がある。
サトシは簡単に人を信頼しない(というかキルトへの信頼はゼロである)が友愛にポテンシャルはある(キルトへの友愛感情はゼロではない)、そんな個体であることがアリスにはよく伝わった。
サトシはダンスもボーカルも下手なぶん誰よりも多く練習しているのがキルトだということを比較的評価しているメンバーだからまだ見られてマシだったと言えるが、もう二度とこんな過ちを犯してほしくない。
アリスはホテルに戻ったらきちんとキルトに「バレてしまった過去人リスト」を未来に提出させ、サトシが家族を含めた他人に洩らさないための対策を二〇〇〇文字程度にまとめて提出させることを決意した。
「てか、未来ではどうなってるの? 過去に来てるときは。実際、本当の? ふたりの身体は?」
「寝てる。タイムトラベルセンターのカプセルで栄養点滴を受けながらスヤスヤ寝ているよ」
「へえ、すげえなあ。やっぱ七十年もたつと、過去に行けるようになるんだな」
「うん。未来はまだムリだけどね。本当はもう行けるんだっていう陰謀論は根強いけど。でも全員が過去に行けるわけじゃない。大学で過去研究を専攻したうえで、資格がいる。おれはやっぱアイドルになりたくてさ。だから「アイドルの研究」っていう名目で論文書いて資格試験を受けてコッチに来たってわけ。そういう研究者は多いよ。不純っちゃ不純だけど、でもこの時代の研究だって多少は不純な動機のヤツも含まれるわけだからさ。わりと誰しも? まあ、まあ、みたいな。アリスはおれに付き合わされた形」
「なるほどな。公式のアリキルのプロフィールが休学中の大学生っていうのはあながち噓じゃないってことか」
「そう。飲み込み早くて助かります」
「じゃあ戦国時代の歴史の研究とかは、けっこう進んでるの?」
「じょじょにはね。けど過去へさかのぼる範囲は五十年単位で試験がとんでもなくむずくなっているから、実際には「昭和時代」以前に行ける人はそうとう天才的な研究者、それも専門的な分野に限った人しか行けなくて、そうするとどれだけ良いテキストが書けて動画や写真での記録が増えたとて、どうしてもその人の主観を信じる以外ないから、エビデンスに乏しいってことで正確な研究として認められるのは、ふつうに過去の文献を読み解くよりかえって難しいと言われているよ」
「へえ? なんかむずいけど、そんな簡単じゃないってわけね」
「うん。動画や写真などのメディアを捏造することって七十年後にはもうあまりに容易いことだから、AIのアシストを借りたとてかえってテキスト、つまり文章のほうがまだ参照しやすいっていうのが、皮肉なことだけどな。なんなら「昭和時代」とかのテキストはまだオールヒューマンメイドなわけだろう? 証拠としてはタイムスリップよりまだぜんぜん、重んじられているんだよ」
サトシはいまキルトが口にした「昭和時代」の発音で、時折り感じていたアリキルのイントネーションの違和感にすべて合点がいった。まるで自分たちが言う「平安時代」「戦国時代」みたいに「昭和時代」を発音している、七十年分の意識のズレにようやく気づいたというわけだった。
「じゃあ、七十年後でもダンスとかボーカルとかをめっちゃ簡単に上達させる発明とかはないってこと?」
「え? それは、あるよ」
「じゃあなんで……、あ、や、ゴメン、なんでも……」
そこでサトシは口をつぐんだ。
「うん? 言ってみ? なんで? ご遠慮なく。じゃあなんで、おれたち双子は? わかってるから。さあどうぞ」
「……なんでアリキルは、揃ってダンスがクソ下手なの?」
「そこまで言う?」
キルトは煽ったくせに傷ついていた。心拍や体温をもとに判定する身体アシストがカウンセリング要請を出している。それを三時間後に遅延させて、キルトは応えた。
「この数十年もうずっと身体レトロブームだから。そういうテクノロジーアシストの恩恵を受けてパフォーマンスを上げること自体が忌避される傾向があるんだけど、でももう本人の身体のポテンシャルだけでするパフォーマンスと、テクノロジーアシストを頼ってするパフォーマンスを、はっきり区別することはできない。おれたちはあらゆる側面でもうテクノロジーアシストの恩恵を受けながら生きているから。たとえばおれだって、そのとき練習で追い込めばきちんと上達できる体調か、それとも却って疲労があって怪我するリスクが高い状態かっていう判定は、身体AIに頼ってるワケだし。だからスポーツとかはもう、趣味娯楽でするそれとテクノロジーアシストをフルに活用するプロフェッショナルとではおなじ競技でもまったく別のものとして扱われるし、きほんプロとアマチュアの境界がはっきりした世の中になった。だからこそ、おれもアリスもできるだけテクノロジーアシストの恩恵を受けないで自分の力だけでパフォーマンスする。それがエコブラの一員としての最低限の、マナーだと思ってるんだ」
それを聞いたサトシは思った。たしかにアリキルはダンスもボーカルも普通か普通より下。だけど。
実力は普通以下でも、未来人でも、こいつらはいまのエコブラに必要な、大事なメンバーだ。
「わかった。なんかあったら、こっそり相談して」
サトシがそう言い残して楽屋に戻ると、キルトは「ほら」みたいな顔をしてアリスを見た。
「なんとかなったじゃん」
「キルトはサトシの信頼は得たかもしれないが、おれの信頼は失ったね」
「「信頼」! なんてノスタルジックな響き」
キルトは今日のステージで七箇所は振りを間違えていたのに、なにやら上機嫌で屋台のパッタイを購入しにいった。
*
8koBrightsは現在世界レベルで活躍中の某ボーイズグループが結成されるきっかけとなったサバイバルオーディション番組の、三次、四次、最終選考にあたる合宿審査において「人間性」の未熟さや協調性のなさが問題視され(それが直接指摘されることは、メンバーによってあったりなかったりしたものの)、落選した面々がリーダーであるリュウの誘いに応じてなんとなく集まり、結成されたグループである。
メンバーは押しなべて複雑な家庭環境のもと育ったことが熱心なファンのリサーチによって暴露されていたことから、グループの支持者たちは公式のファンダムネームである「エイシス」ではなく「ハッコウ」、つまり「発光」というエコブラのコンセプトとそれを文字った「薄倖」というダブルミーニングが意図された自称を用いている。
しかし、いまやその由来を知る人は少なく、古参ぶるファンが好んで使うことから却って廃れない愛称となっていた。
運営やメンバーは黙殺しているが、たまにレンなどがインスタやTikTokライブでうっかり口にしてしまうことがある。
「「ハッコウ」……あじゃなくて「エイシス」のみんなが喜んでくれたらうれしいよ~」
のような形で。すると「ハッコウ」たちは歓喜し切り抜き動画が大量に拡散されるから、公式のファンダムネームである「エイシス」のほうの認知がなかなか進んでいかない。
ファンたちも家族の問題や社会へのなじめなさなどでメンタルに不安を抱える人間が多いというのは音楽ライターなどからよく指摘される事実としてあった。
一方、資本主義や国家の解体された七十年後では「家族」は現在ほど大きな役割を果たさず、AI技術や福祉の助成によって十代までの依存先の有無が子どもの愛着形成に与える影響はかなり小さくなっている。
アリスとキルトにはエコブラのメンバーの「欠落」によって、黙認されている未来人特有の変さがあった。
…… アリキルは薄幸というよりなんか……
…… ひねくれてるっていうよりなんか……
…… 我が強いっていうよりなんか……
…… 空気が読めないっていうよりなんか……
「おまえら、なんかズレてるんだよ!!!!!!」
合宿審査の四日目に、たまりかねたシンイチに言われたアリスとキルトは揃ってヒソヒソ、密談した。
全員参加で行われた基礎レッスンでの一幕だった。休憩中にオーディションの主宰兼プロデューサーの小松が駄菓子類を差し入れた。
するとキルトが支給されたゼッケン付きの黒シャツが汚れること厭わず羽二重餅を貪るように食い、その口から零れる白い粉が隣に座っていたシンイチの顔に付着した。
ボーカル志望でダンスの苦手なシンイチは、いまや美容担当といわれるほど肌に気を遣っているのに睡眠不足からくる吹き出物に見舞われ、駄菓子などもっての外と内心思っているのに食べないわけにはいかず、そんななか無邪気に羽二重餅を貪るキルトが洩らす「うめえ……絶滅伝統菓子……たまらねえ……ハアハア」という声がハッキリ、マイクに拾われていた。
放送ではキルトのそのつぶやきはカットされ、シンイチの「おまえら、なんかズレてるんだよ!!!!!!」という心からの叫びだけが使われてしまった。
テロップで「時に激しくぶつかり合うメンバーたち」と乗せられていたそのとき、アリスは「おい、過去のものをあんま珍しがるなっていつも言ってるだろ」と耳打ちしたのだ。
「だって、羽二重餅だよ?」
キルトの声量は変わらなかった。そこで最終審査を二位で通過し現在も本家グループの一員として活躍中のメンバーRYUNOSUKEが、「そんなに好きならオレのも食う?」と言い自分の羽二重餅を差し出すと、キルトはRYUNOSUKEを抱きしめた。
RYUNOSUKEの好感度は上がり、シンイチとキルトの好感度は著しく下がった。キルトは単純に食べ方が汚すぎ、という指摘が多かった。汚れたシャツで抱きつかれたRYUNOSUKEはしかしまったくそれを厭うようすもなく、「キルトは餅がすきなんだなあ」と言った。
その一連の流れをいまでもシンイチは恨みに思ってい、「キルトのことだけは許せねえ」とよくレンやサトシに洩らしていた。
今回のステージでもキルトはたびたびシンイチに接触し、フォーメーション感覚に定評のあるレンが位置を調整して即興のファンサに走った。確実にバレて拡散されてしまうのだが、それでもなんとか失敗の印象は誤魔化された。
トイレでたまたま横に並んだときに、シンイチはサトシに「あいつなんか今日、とりわけ浮ついてなかった?」と苦笑しながら言った。
「そんなことねえよ!」
サトシの強い否定に、シンイチはぎょっとした。
「なにキレてんだよ。そんなんだからおれら情緒不安定なトコが逆に推せる~とか言われるんだぞ」
「あ、いや、すまん」
「明日の本番の前にキルトと振り確認しないと、またグダグダになるわ。マジあいつ抜けてくんないかな」
「ハハ……」
キルトとアリスが未来人であることを聞いた直後であったから、サトシは気が気ではなかった。
事務所に所属せずフリーで地下や地方のドサ回りイベントから地道にファンを増やしていき、オーディション視聴者の熱気が残っていたころにはまだホールクラスの公演はできていたが、徐々に勢いは落ち込んでいた。
元メンバーのヤスが体力不足から体調を崩して離脱し、そのまま社長となって株式会社キャッツクレイドルを立ち上げた、エコブラとしての活動も四年目に入るところだった。
*
「おいキル、ちょっと暗くなる前に、フォーメーション確認するから来い」
巨大駐車場で観客のほとんどが大人気女性アイドルグループを観に行っている、その隙にちゃちゃっと振り確認をしてしまおうと切り出したシンイチに、キルトは「なんで?」と応えた。
「今日も「Three-Body」でおまえが間違えてぶつかりそうになっただろ。あそこ成功率低すぎなんだよ」
「それは、シンイチがステージの狭さを考慮していないせいだよ。たしかに振りを間違えたのはおれだけど、ぶつかったのはおれのせいじゃないよ」
「は? だから練習しようって言ってるんだが」
「シンイチは目立とうとするのをおさえて冷静になればいいだけだよ。おれはこの後ホテルで個人練習するから、いまはいいよ。カオマンガイ食べたい」
そしてキルトは屋台のほうへと消えていった。
駐車場に取り残されたシンイチは、しばし呆然とした。
アイツは何故あんなに食いまくってるのに太らないんだ!!!!!!!!!
そしてやや見当外れな憤りを口に出して叫びそうになった。シンイチは体質的に太りやすく、日ごろから糖質と脂質をかなりカットしてようやく他のメンバーと同程度の体脂肪率を維持していた。
たしかに、言われてみればそうだった。ステージのとくに奥行が狭いことはリーダーのリュウからさんざん言われていて、「ダンスはほぼフォーメーションと上半身だけでよい」とされていた。
「シンイチはステージで「俺を見ろ」の気持ちがよく出ているね。それはシンイチの長所だと思う。でも今回の曲のコンセプトをよく考えてみた? 我を出すことと華を出すことは、似て非なることだって、少しずつ気付けるといいよね」
かつてのオーディションでプロデューサーに言われた、苦い助言が頭に残っている。
だが、我を出して何が悪い、とシンイチはいまだに思っていた。自分はステージの上でしか自分自身でいることができない。そこだけが唯一遠慮なしの自分を表現できる場なんだ。
けっきょく日常でも安心して自己開示できる人間に、おれの気持ちなんて分からない。
人間性や内面のよさこそが天から与えられた才能だ。アイドルはそれを体現するみたいにキラキラして不特定多数にモテる。
たくさんの愛を受け取って、輝いて元気になれる体。その体で愛をお返しする。だが愛されることに慣れていない、安心できない人間にはそれが難しい。
それでも唯一音楽が鳴っている時間だけは安心できる、平等な自己表現の場だって、音楽に救われたからこそシンイチは盲信していた。
本当はわかっていた。キルトは人一倍個人練習しているから太らない。シンイチは個性にかまけて肝心の技術がついていかない。それでもキルトよりは歌もダンスも実力は大分上なのだが。
しぜんと足が、メインステージのほうへと向いていった。
ステージのキャパに間引きされるように動きを制限されたとて、会場を大いに沸かせている、まだデビューして間もない日韓混合の女性グループのパフォーマンスをシンイチはひとりの客として眺めた。
ちゃんとステージのサイズに合った動きを、メンバーそれぞれがきっちりこなしている。
ふと右のほうを見やると、そこにアリスの姿があった。相変わらず白い半袖シャツを着ている。アリスは普段着のすべてが白の半袖シャツとジーンズという、冬場でもその無個性な恰好で現場に来る。
小学生のころそういうヤツいたよなーって笑っていられたのは最初のうちだけで、それが永遠のように続くと驚きを通り越して呆れ、恐怖すら覚えるのだった。
ある日、なにげなく「お前、白シャツ好きだな」とイジるつもりでもなく素朴にオフで声をかけると、やや後ずさりするように距離をとられたあとでシンイチはこう言われた。
「ゴメン、おれ、個性恐怖症なんだ……」
その謎の恐怖症は初耳だったが、シンイチはそのときに、あ、だからおれはアリスから距離を置かれているんだな、と悟った。
オーディションの時から、アリスがシンイチと同じグループにならないよう慎重に振る舞っているのはなんとなく分かっていたが、たんにボーカリストとしての相性の問題と思っていた。
だがボーカリストとしてだけではなく、明確に自分は避けられていた。正しくは、自分の「個性」が。
アリスの没個性的な声質と音域の広さは楽曲の骨格を支えている。とりわけ、シンイチのパートに透明感の強いファルセットを合わせるときに安定感と華が両立した。
シンイチとアリスの声は、ふたつ合わさって丁度いい。
これが我を出すことと華は違うってことなのかな。
とある日のシンイチは思ったのだが、しかしキルトほどではないもののアリスに対しても依然苦手意識がある。
事務所の会議室でアリキルが談笑している場面にたまたま遭遇し、ドア越しに入るのをためらっていると、中からアリスの「シンイチのボーカルに声を合わせるの、どうしても怖気だっちゃうんだよね」と、とんでもなくひどい愚痴をおそらく本心から口にしているのを聞いてしまい、一気に気持ちが萎えたのだった。
シンイチがさすがに傷ついて急ぎその場を去ったあとで、「どうしたらおれの個性恐怖、治るのかな……」とアリスはキルトに相談したのだった。
「ま、現代病だからね。だましだまし付き合ってくしかないよ。投薬はしてるの?」
「してるけど、体質依存アラートが出ていて、ちょっと耐性ついちゃってるっぽい」
「ちょうどいいじゃん。シンイチみたいな我の強い過去人の近くにいて、慣れるんだぞ」
「シンイチぐらいの人なんてこの時代、ゴマンといるもんな。てかお前また過去人とか言って。口に出すなよ」
「へーい」
アリスは他のグループやさまざまな楽曲のことを知っているのみならずそれぞれの分析に至るまで的確で異様に詳しい。いまもステージ上のアイドルを眺めている表情はきわめて輝いていた。
コイツは自分がステージに立っているときよりも人のパフォーマンスを見ているときの方がキラキラしている。それはシンイチにはとても考えられない価値観だった。
アリスは、夢にまで見たあのステージ!!! 女性グループならではのボーカル力の高さ、韓国で練習生経験を積んだメンバーが引っ張るダンスの質、ともに新人とは思えない……生で見られるなんてなんたる僥倖!!!とジーンとしていた。
未来でも3Dデータとしては残っていない時代のアイドルだったために、生身が動いている奥行に感動し、思わず両眼からツーッと涙をこぼした。
キモ、とシンイチは思った。
*
「声が出ない?」
シンイチが思わず伊佐木マネージャーの発言を反復した。
二日目のステージまでを滞りなく終え、あとは最終日を残すのみという夜にホテルでくつろいでいたところ、緊急MTGという名目で伊佐木マネージャーの部屋に呼び出され、告げられた内容はレンの喉の不調についてだった。
ここ最近のパフォーマンスからなんとなく予想がつく報告ではあった。
7th配信限定シングル「Three-Body」の地方リリイベからシームレスにこのバンコク遠征と重なったレンの喉は相当酷使されていた。
とくに同曲においてD♯の高音を地声で三秒ほど伸ばすブリッジパートからラスサビへと移る歌唱に相当痛めつけられていることは分かっていたから、他のメンバーは神妙な様子でただ聞いていただけだったがシンイチは「うそだろ、そんなキツかったのか」とつぶやいた。
キルトがポンとシンイチの肩に手を置き、「そういうとこだぞ」と言って微笑んだ。
シンイチは一瞬ポカンとしたあと、「で、どうするんすか、「Three-Body」ナシでいきますか?」と言った。
「みんなごめん。最近は連日のステージがあるときは鍼の先生に帯同してもらってたんだけど、さすがにバンコクまで来てとは言えなくて」
レンがしずんだ面持で言った。喋りかたからして微妙にいつもと違っていて、なるべく声を出させないほうがいい。
レンはそのボーカル力と人気においてエコブラの圧倒的トップに君臨し、どこかの事務所の芸能コースなどに所属していたわけでもないのにダンスでも遅れをとることはなく、かつ動きながら歌うということへの適応力も非常に高かった。
男子としては稀有なほどダンス&ボーカルに向いた身体なのだがしかし調子にムラがある。
メンタル面にやや不安を抱えており、8koBrightsが結成されるきっかけとなった某オーディション番組でも実質のデビューがかかった最終審査のパフォーマンスにおいて、中間発表と本番ともに本調子のボーカルが披露できず脱落していった。
レンはその不安定さや自己流の身体性において発現する、稀有な声質と華があって人気が出た。
その反面、柔和ながらの頑固さがより厄介で、周囲はおろか本人すらどう調子をコントロールすればいいか分からず、いまだプロのダンス&ボーカル、ひいてはアイドルとしては不安定な状況が続いている。他メンバーが全員二十三歳であるところ、ひとりだけまだ十九歳であることもそれに拍車をかけていた。
「さっき代表のヤスとリュウとわたしでオンラインミーティングしてたんだけど、尺の関係からも「Three-Body」は外せないし、もちろん急には被せも用意できない。だからどうなるかわかんないけど、みんなにはいろんな可能性を考慮しておいてほしいとは思ってる。とりあえず明日までにレンがファルセットで対応できるぐらいには回復するのを祈るのみだね。プレッシャーをかけるようなことを言って悪いけど、けど逆に言えばこれもライヴの臨場感ってことで、エイシスには温かく見守ってもらえる部分もあると思うけど。みんな夜分にゴメンね」
「意地でも出してもらう」
じっと黙っていたリュウが、そこで重くひびくような声で発言した。
「プロだったら、いつでもつねに100%が出せるよう準備しとけよ。それでようやく、アクシデント時に80%のパフォーマンスが維持できるんだ。というかほんとの本調子で迎えられるステージなんてそれこそその方が稀なんだからな」
「はっ、 正論おつ。相変わらずリュウはボーカリストに冷淡、というかはっきり言って憎んでさえいるね。オーディションの時にダンス初心者のボーカル隊がパフォの質をそろえられなかった、その独り善がりな恨みがまだ忘れられないのかな?」
キルトが言うと、リュウはそれを無視した。場はしずけさ以上のしずけさに包まれ、それを破るのはいつもマネージャーの役目だった。
「まあまあ。リュウの言っていることは正しいよ。でもキルトが言うように正論だけじゃ乗り切れない場面があるからこそ「プロ」ってこともまた事実かもね」
伊佐木が言うと、リュウは「これでも随分妥協してるつもりだわ。ここのところ、まったく人に見せられるパフォーマンスになってねえからお前ら全員」と言い放ち、再びホテルの空調が聞こえるほどの静寂が漂った。
「……リュウは現実が見えてない。いまはレンをよりよいボーカリストとして延命させること、レンが幸せな気持ちで歌えることをみんなで目指すべきなのに」
アリスが言う。
「や、待って、揉めるのは止めようよ。けど、万が一ワイが明日裏声でも出せないなら「Three-Body」は外してほしい」
「レンはそれ言う資格ないよ。自分が招いた不調ではあるんだから。黙って喉を労りなよ」
キルトが言った。自分は到底レンに代われるボーカル力はないというのに、相変わらずの無神経な正論につづけて「だから、アリスが歌えばいいんじゃね」と発言した。
ケータリングから持ち帰っていたバナナケーキを咀嚼しながらの発言だったため、肝腎のアリスの名前がやや聞き取りづらく、シンイチが苛立たしげに「は? なんだって?」と聞き返した。
「だから、アリスが歌えばいいんじゃね? ボーカルとしては心許ないかもしれないけど、地声でレとかミまで出せるのは他にアリスだけだろ? それにシンイチとサトシはすぐフックを被せなきゃいけないんだから裏声とてアリスしか体が空いてないだろ」
バナナケーキを飲み込む猶予を待ちながら、メンバーはキルトの発言に耳を傾けた。
アリスの音域は広い。ピッチも正確だが個性恐怖もあいまって声量はなく声質も細い、なにより「表現」に心許ないというのがオーディションのときから通底する印象としてあった。ゆえに基本サビ以外のメロとハモリを担当するに留めていたし、それで個性恐怖の発作も防ぐことができていた。
*
個性恐怖。時代が進むにつれ自己主張が忌避されていった結果、七十年後の人類がカウンセリングにかかる名目として急増している疾患だが、そもそも歌唱の分野では「個性」というものの概念が現代と七十年後ではあまりにも違った。
きっかけは二〇四三年に発表される、とある論文によって提唱された「ヤシロアキ理論」と呼ばれる研究による。
キルトは未来でアリスにその名を初めて聞いた際、「初耳の学説」と言って、アリスに説明を乞うた。
「てかAIに聞けよ。そのほうが理解早いんだから」
「いいじゃーん。たまにはきょうだいの交流深めようぜ」
「うざ。「ヤシロアキ理論」ってのは、単純にいうと、音楽において歌手は必ずしも歌詞の内容に感情移入して歌うことが良いワケじゃないっていうことを証明した研究。実在した歌手の歌と発言をもとに研究したAIと人間混合チームの掲げた仮説とその立証によると、楽曲においてクリエイター側が歌詞にどれほど創作の重心を置いているかは関係なく、歌詞の意味と内容に重きを置いて歌うAI身体の歌唱と、音楽全体の構造に重きを置いたAI身体の歌唱を聞かせた生身体の反応では、構造に重きを置いた後者の歌唱に「感動」、つまり情緒反応が強く出たっていう結果をまとめた論文だよ」
「え、つまり、AI身体が歌詞に感情移入して歌うと、それを聞いた生の、現実の人間の反応はむしろ悪かったってこと?」
「そう。それに加えて、生身体が、つまりこの時代でいう普通の人間が歌うときでさえ、歌詞に強く感情移入するグループより、構造をしっかり理解したグループの歌唱のほうが、情緒反応が強く出やすい、つまり「感動」されやすいってデータもきちんと取れてはいる。これはAI査読では実験結果にバイアスがある嫌疑がかけられているようだけどもね」
「まあでもそういう時は大体、実験結果が正しいケースが多いよね。そうか、歌詞への感情移入、無意味なのか」
「無意味ではない。でもそれよりは時代背景とか楽曲の構造とかを、よく知っていたほうがいいって結果。まあ歌詞の意味とか内容に感情移入することが必ずしも音楽にいい影響を与えるわけじゃないってことは論証されたかもね。これはクラシックと呼ばれていたバッハとかベートーヴェンの時代の音楽を知っている人ならそりゃそうだろって思うかもしれないけど、たとえば演奏者のその都度の感情に合わせてテンポを揺らす、テンポルバートが楽曲に良い影響をもたらすとは限らないというか、つまり、感情のままに音楽のテンポをアレンジしても良い結果がもたらされることは少ないわけだし。だけどポップミュージックを好む層には当時逆に思われてもいたから、発表されたときは画期的な論文として話題になったらしいよ」
「へええ。どうでもいいような論文だけど、たしかに画期的。でもなんかあんまりしっくりこないなあ。おれは直観的に反対派かもな。やっぱ歌詞には感情が入ったほうがいいよ」
「なるほどね。これはいわゆる歌手の仁、ようするに、その人ならではの個性やキャラクター、いわゆる「身体性」とは関係なく、くわえて聞き手はあくまで歌い手の「音楽性」つまりバックグラウンドに重きを置いて聞くも自由だけど、歌手のほうでは詞の意味に即して行う表現、分かりやすいもので言うならばテンポを揺らして歌うルバートのような技法を歌詞に応じて行うのは逆効果で、あくまで無心に近いような意識で目の前のフレーズに注力するのが最善手とされる。ライヴシステムや歌い手と聞き手それぞれの「人生」タイミング、つまり場の環境に大きく左右される説であるのは自明のこととしても、それでも歌い手が歌詞の意味を「理解」「共感」することが必ずしも聞き手の感動を増幅させるわけではなく、むしろ音楽的な構造への理解のほうが如実に聞き手の情緒に響くという、いまとなってはこれが常識となっているわけだからまさしくパラダイムシフトだね。身体の行うしぜんな発声や表情や集中にすでに歌の魂はこもっていて、そこに歌詞の意味まで乗せて強調するのは聞き手の共感や感情移入、ひいては解釈を奪う行為だと忌避される現実をもたらした、いやあ、いい研究なんだよね~」
過去学説オタクとしてのアリスの早口を、もはやそのときのキルトは聞いていなかった。
しかしそのような未来の「常識」はむしろ「非常識」である現代においてアリスの歌唱は評価されづらく、もともと七十年後の価値観では生身体としてはものすごく上手い方に数えられていたアリスの歌は、まるでピアニストとしてのショパンが当初そう評価されていたみたいに、単純に「音(声)が小さい」。
この時代で個性恐怖の症状がより強く出てしまい、オーディションの歌唱指導で声量の弱さの指摘からはじまる旧態依然の精神論に曝され委縮した発声を繰り返したことによって、さらに細く弱い声しか出せなくなり、アリスの歌はより下手な印象が根づいてしまった。
一方、キルトはシンプルに歌が下手だった。
*
「ハー……」
アリスは深い溜息を吐いた。このところ不用意なキルトの発言、行動がとみに増えている。こんなんじゃ、いつ免許が失効してもおかしくない。あとでキルトには厳重に注意しなければいけない。
「レンのパートをアリスが代わる?」
サトシがそうつぶやくミーティングの主題とはまた別のことをアリスは考えていた。
「うーん、アリスはどう思う?」
伊佐木マネの中ではアリよりのナシ。そんな手応えの提案だった。アリスにはソロで大勢の注目を一身に浴びる場数が圧倒的に足りていなかったし、なにより本人にその意欲が乏しい。
「いや、危険だろう。あのブリッジんとこの高音はしくじったら非常に目立つぞ」
シンイチが言うと、サトシが「お前、そんなプレッシャーを与えること言うなよ」と窘めた。
「でもガチそうだろ。おれだってあそこはソロじゃ無理だよ。アリスと二人でなんとか、ファルセットとハモって対応するぐらいしか現実的には。完全にレンに合わせたキーになってる」
「ワイは、アリスのボーカルはすごいと思ってるよ。だから……でも、というか、明日には治ってると思うけど!」
レンが言った。
実質のパフォーマンスとして、サビやブリッジの難易度の高いボーカルはおおかたレン、シンイチの二人で回している。サブとしてアリス、そしてオールラウンダーのサトシがメロと一部ラップを担当する。そしてリュウがメインのラップパート、サブでキルトもすこしトリッキーな声を駆使したラップを担った。
レンの調子にムラがあることがここまで議論の俎上に上がってしまう現状、ひとり増やして三人でメインの歌割を構成できれば、少しはレンの喉を労わる余裕が生まれるだろう。
少しずつステージの回数も増えてきている。作曲経験もあるレンのボーカル力によっていい楽曲を作ってもらえてい、またリュウのダンススキルが注目を集めてコレオグラフィー(振付)もより難易度が高く、かつ真似したくなる華があるものに仕上がっていた。
とくに今作「Three-Body」はそれが顕著で、現にTikTokなどで振りコピ、歌コピされる数も今までになく多かった。
もしほんとうに、アリーナクラスを埋めるダンス&ボーカルグループを、目指すのであったら。
「アリス、どう? 明日の朝もう一度ヤスとは話し合うけど、今回トップラインを担当してくれたC¥パンさんはアリスのボーカルをかなり買っているよ。もっと我を見せてくれたらとは言ってたけど、でも、あまり出会えない不思議な感覚があって、それは磨けば強い個性になるんじゃないかって」
個性! アリスは白くなってトイレに駆け込み、吐きそうになったが吐けなかった。
強制嘔吐のツボをAIの指示に従い鍼で自己押しするか迷ったが、とりあえず三分ほど瞑想することでなんとか調子を取り戻し、何事もなかったかのように元の椅子に座ったところで「無理っすね」と言った。
「歌割は神聖なものだし。しっかり準備出来てないパフォーマンスは外すべき。そういう意味ではレンに賛成です」
「うん、わかりました。ゴメンね、アリスも、レンも、いろいろ無理させちゃってるね。この件については明日また報告するので、リハ前にもう一度集まってもらいます。みんなちゃんとグループLINEを見るように。じゃ、おやすみ」
全員で伊佐木マネの部屋を出たところでレンがアリスを呼び止め、「マジで迷惑かけてごめん。でもほんとにお世辞とかじゃなくて、アリスの声、ワイは好きだから、その安定感、ワイにはないものでほんといつもすごいと思ってる」と言った。
「おれのほうこそゴメン。力不足で、レンを助けてあげらんない」
「いや、鍼さえ打てればぜんぜん、歌えるんだよな。今度から海外遠征でも帯同してもらえるよう、事務所に交渉しようかな」
「……そうしたほうがいいかもね」
*
ホテルの七階に戻り、キルトとアリスがふたりで三日滞在するツインルームのドアを閉めたところで、アリスは「おまえ、マジでやりたい放題だな」といつもより強い語気で言い放った。
「AIシステムの助けなしで、この時代のレトロなダンス&ボーカルグループに憧れておれらここまで頑張ってきたのに。台無しにするつもりか?」
めずらしく本気で怒っているアリスの迫力に気押されたキルトは「ご、ごめん……」と謝る。
「謝って済むなら警察は要らない、とやら、なんとやらなのだが」
「そうだよな。アリスはおれと違って、この時代の「個性」にノスタルジーや憧れがあるわけじゃないのに、ソロをさせようとしたのは、わるかったよ」
「違う。歴史を変えたらダメなんだ。お前はなにもわかってない」
「それは分かってる。分かってるからこそだ」
「じゃあ、お前は自分のせいで歴史が変わって、それで免許が失効してこの時代にいられなくなってもいいって思ってんのか?」
「違う。ただおれは、明日のことを気にせずに、いまに全力で向き合いたいんだ。未来ではそうできなかったことを、過去で果たしたいんだよ」
「その結果、明日にでも強制送還されても構わないのか?」
「構わないよ。「夢」が犯罪になってしまった未来に戻って、たんたんと生きるよ。だってそうじゃなきゃ、そもそも過去にきた意味がおれら、ないだろう?」
「夢」は未来では軽犯罪にあたるものになった。以来AIシステムの助力もあってとくに若い世代で殺人や病死や事故や自殺が明確に減り、健康に長生きできる社会が実現された。
「夢」は健康に悪い。時代が進むにつれ睡眠時間の減少がますます社会問題化し、加速するプライバシーの侵害や、あらゆる娯楽と労働の低年齢化が進み、それとなく一般層から「夢悪説」が流行しはじめ、それが採用されてしまった形だ。
だからこそ、表向きはそうでなくても、実際には「夢」を求めて過去へ行こうとする若者への批判も根強い。タイムトラベル免許も現在の十二歳以上から二十歳以上へと、厳格な年齢制限を課すべきとする意見も多かった。
AIの計算より、むしろ生身体を持つ政治助活動資格者(現在でいうところの政治家)にその傾向が強い。
AI側はむしろ「夢」という罪を犯した人間がそれ以降に未来ではほとんど嗜好されなくなっているアルコールや薬物依存に陥り、自死に至るケースが少しながらあるという問題のほうをより重視し、「夢」の禁を犯してからの更生に注力すべきという立場が多いようだった。
「夢」から醒めたあとに、「夢」抜けして現実を生きる「夢なし」セーフティネットがもっと要るというサジェストである。
「理解できない」
言葉とは裏腹に、アリスは気づいていた。キルトは「夢」を満喫したいんじゃない。「夢」を長く楽しみたいのなら、あんな提案はしないはずだ。
キルトはきちんと「いま」を生きるこの時代の人間として、レンを救いたい。
「いや……もう寝ろ。どうせ明日にならないとなんもできん」
キルトは黙って風呂を溜めに行った。窓を全開にすると、生ぬるい風とともに入りこむ、かぐわしい匂いがする。
これは過去臭とも言われるが、土地のスパイスや生物の体臭入り混じる、まったき自然の匂いだ。あらゆるものが除菌脱臭されている未来の没個性的な空気でなく、ありのままここにある歴史の繫がった土地の匂い。きっと、この中には「夢」の匂いもたぶんに含まれているのだろう。アリスはそう思った。
おれたち、この風を浴びにきた。
アリスとキルトが元いた二〇九六年では、気候変動の深刻化が軟着陸できるかどうかの瀬戸際に立っている。二人は専門家ではないから詳しくはないが、少なくとも酷暑の進行、長期化が進んでいる事態はほとんどの人類が危機感を抱いていた。
加えて、エビデンスの確かなものから、陰謀論に近いものまで、大気汚染と有害物質との関連が危険視されている。
スーツクーラーの性能で除菌脱臭は可能であっても、エネルギー効率の観点から、一部地域では日中の外出はごく短い時間に制限され、事前申請なしには叶わなくなっていた。夜間でさえ、自発的に外出しようとする者はほとんどいない。
この時代でアジアに区分されている地域のほとんどは、未来では自由に外出することすらままならない。
こういった事態を、専門家が心血を注いで開発を進めている新しいテクノロジーが解決できるか否か。
さまざまな可能性を検討したAIは、楽観論者と悲観論者の割合としてはまだ、これからクリーンな地球を取り戻せるだろうという楽観論の方がやや優勢。そんな状況だ。
だからまず、七十年前の日本に降りたった初めの日にアリスは、そこはかとない不安と心細さとも矛盾せずその「土地の空気」に興奮してしまい、遅れて到着したキルトに「きてよかったな! きてよかったな!」と捲したてた。
このまま、歴史と生き物の臭いの染みついた、この土と空気がずっと維持できればどれだけいいだろう。
アリスは元よりこの時代にいたなら、必ずや気候変動の問題に取り組みそれを食い止めたいと思ったのだったが、それこそ未来的エゴであって、現実にこの時代に生まれていたらそんな風に強い危機感を抱いたかなんて怪しい。
「それにしてもなんと尊い……この風を、太古からの連続性を皮膚で感じられる、このよろこびたるや!」
仮想シミュレーションを何度も経ていたためかキルトの反応は薄く(それはアリスも同じ条件のはずなのだが)、「そだねー」といってすぐに予定を決めていたパンケーキの店へと足早に向かった。
そんなことを思い出しつつアリスがシャワーを浴びて戻ると、すでにキルトは睡眠アシストの恩恵も受けずに眠っていた。アリスは頭の中がごちゃごちゃしてい、ここのところ毎日そうしているように思考と交感神経の減衰操作をアシストされようやく眠りにつくことができた。
「夢」はまず眠りに悪いのだった。
*
アクシデントは半ば予測されていた。
最終日の本番。レンは朝集合するなり、「みんな心配かけてゴメン。喉、治ったっぽい。伊佐木ちゃんのくれた漢方が利いた」と言った。それを証明するように、基本流して動作確認するリハの最後にレンが本意気で「Three-Body」の綺麗なブリッジを披露した。
「よかった! でも無理すんなよ。昨日までだって、本調子のボーカルってワケじゃなかったろ」
シンイチが言い、しかし内心メンバーの全員がホッとしていた。アリキルを除いて。
レンは噓を吐いている。喉の調子は昨夜のままだ。踊りながら五曲を披露してリハと同じ高音を披露するコンディションではまったくない。
そうした意味で伊佐木を含めたメンバーは全員がプロ意識に欠けていた。そう思いたかっただけなのだ。いつもみたいに、レンの才能と運を信じて乗り切ってくれるはずだと楽観的に。
案の定、本番がはじまると「Three-Body」まで保たないどころかより悪い状態に陥った。あからさまに声は掠れてい、それをカバーするようにより無理してがなり、喉を潰すような歌唱法に頼った。
何事もなかったかのようにパフォーマンスは続いたが、むしろレンとアリキルを除いた他メンバーに動揺が伝わり、歌詞が飛んだり、しっかりマイクに声を乗せられていなかったり、一目でわかる振りの間違いまで発生したりと、ボロボロになっていった。
アリスとキルトはこの事態を知っていた。昨夜の時点で運命チャットに質問しておいたのでレンの声がまったく回復していないことは分かっていたのだが、それを他のメンバーやスタッフに伝えるわけにはいかなかった。
伝えたところで、その不自然な状況に警戒されるだけで、なにも改善されはしないだろうとチャットにも書いてあった。
すでにタイムトラベラーであることを知られているサトシにだけは知らせるべきかとわずかに話し合ったが、それもやめておくべきだとキルトが言った。「Three-Body」におけるサトシの歌割りはそう多くなく、レンのボーカルをカバーできる力があるわけではないため、かえって動揺を誘うだけだろうと、キルトのほうが終始冷静だった。
そして六人はそれぞれになんとなしの不安を抱えたまま本番に入ったのだ。
「We are 8koBrights、発光する、ら!」
本番前に気合いを入れ、このときばかりは普段近づきたくもないメンバーと力強くハグを交わし、いきおい持ち上げたり、握りつぶさん勢いで握手したり、メンバーにしか分からない方法でメンバーにしか分からないナーバスをほぐす。
もともとは「We are 8koBrights、発光するお、れ、ら!」だった掛け声が、レンが一人称の「おれ」を一瞬言い淀み「発光する……ら!」と省略した。それがその場にいた全員に受け、のちにファンにも受けて定着した。マンネ(韓国語でいうところの末っ子)であるレンの一人称が「ワイ」であるのは有名である。
結成当初の勢いのある時期とはいえ、メンバーとスタッフの心がひとつになって笑いあえた貴重な、宝物のような時間だった。
もはや六人はマネージャーの伊佐木が場にいなければ雑談のひとつさえできず、自分たちの勢いが落ちているから雰囲気が悪いのか、自分たちの雰囲気が悪いから勢いが落ちているのか、それすらごっちゃになってしまっている。
*
三日目でずいぶんこの奥行の狭いステージにも慣れた。
六人の自我が一つにまとまるような不安のなか、「Three-Body」の音源が流れ始めたとき。
イントロはいつもどこか怖い。これから歌声だけが入っていない音源を完成させる。そのためのみにあるこの六個の身体だと、六人であることの怖さと心強さが入り混じる。
世界にあるべき足りないピースを、毎回、その場その場で埋めていく。それこそがLIVEシステムであり、この恐怖と快感が麻薬みたいで、レンは生パフォーマンスにこだわった。
大人や社会に試されるようなオーディションで、ことごとく自分の力が発揮できなかったからこそ、自分の味方である「ハッコウ」たちの中では世界を構築するなまの臨場感を共有したい。ただたんにそのことが気持ちいいから。
だけど、歌えない。どこか予想していた、当然のように出ない高音に、身体がよりこわばり普段だったら風邪を引いていても出せる音域すらままならない。
しかしここへきて、レンの声の不調を補うように、「Three-Body」の音源のなかでだけ強く連帯するメンバーのパフォーマンスがひかった。
レンの不調によってはじめて、発揮される五人の強気のパフォーマンスで、「Three-Body」の世界観をなんとか作ってゆく。ボーカル面ではパートに余裕のあるサトシが出せる音域はみずからレンの被せのような役割を担ってカバーしていた。
キルトは余裕をもって踊りながら、アリスにつねにつよく身体で訴えた。
「お前が歌え」
アリスはそれを充分に分かって、しかし応えるつもりはなかった。いつもより抗生物質を多めに飲んでいたとはいえ、不調を覆い隠すようなシンイチの個性がアリスの吐気をより促す。
レンは声の調子が出ず、持ち前のメンタルの弱さが発動し泣きそうになっていることがわかった。
すべての面においてメンバー全員を上回る才能を持っているとはいえ、まだレンは十九歳なのだった。
このままだと、ブリッジの最後はほぼ無音になるだろう。そこだけはサトシにもカバーできない。
冷静にアリスは分析した。
でもまあ、べつに、いいだろう。
どうせ、エコブラの一員でいる時間も、そう長くない。
必死にサビのクオリティを支えている、レンの声を拾うように聞く。アリス自身も参加しているが、レンの声がなければこの曲はこれほどたよりない。
いつもレンが人一倍、あのイントロの不安に立ち向かっているんだと気づく。「Three-Body」の重厚さを、リュウがダンスとラップのニュアンスをいつもより微妙に強めることで、なんとか支えているが、まるでハリボテだと思う。レンの声がなければ、「Three-Body」の重厚感なんてむしろ自分たちが押しつぶされるための装置のようなものだ。
怖い。
アリスはゾッとした。いざラストへ向かうブリッジに入った途端、静かになっていくその世界の頼りなさはまるで、はじめてタイムスリップした日に、キルトを待った、あの数秒間のようで。だけどその一瞬だけ、たしかに吐気がなくなり、フワッと身体が軽くなるようなあの感覚は、なんだったろう。
未来ではけっして味わえない。
あれは、まるでいにしえに言われる“全能感”みたいな。
光の刺さらない心で/残酷な夢をおれら永遠に/追い求めるよ
その、追い求める「よ」でいきなりハネ上がるCから引き摺るようにさらに上がっていく、D♯の高音。
アリスは急き立てられるように、自分の意志ではない自動機械のようにしぜんに、「追い求める「よ」」をレンの声にかぶせて、歌った。
レンの高音がすぼんでいくその範囲の「よ」一音のみをカバーするように響く、C音から引き摺らずに、ほぼ一息にD♯まで出す。アリスのプレーンな高音が、これまでにはありえない声量で、会場を沸かせた。
何故だろう。アリスはダンス&ボーカルにおいて原理的反個性論者で、自分たちのいまの状況にマッチしたこの歌詞に感情移入して歌うことは信念に反する行為だった。だけどここは未来ではない“いま”で、自分たちは束の間過去を旅する未来人で。
でも、エコブラのメンバーとしてステージに立つその時間だけは、未来人じゃない。
音楽が鳴っているときだけは。
ただの六人のなかのひとり、音楽をつくるに欠かせないピースに徹するんだって。
それがおれの使命というか。
生まれてきた意味だろ?って。
思っちゃったなー……
だけど身体がついていかない。そこからいきおいラスサビまでを歌い上げ、アウトロを踊るために後ろを向いた瞬間に、アリスは吐いた。
アリスは自分自身の「個性」に耐えきれず嘔吐した。
それを予測していたキルトがアリスを抱きかかえるようにして、衣装に仕込んでいたエチケット袋でアリスの吐瀉物を受け取って六人の後方に隠し、立ち位置を入れ替えてアリスをセンターのリュウに被さる位置へと促したからお客さんにはほぼバレなかった。
アリスが吐いたことをメンバーは分かったが、だれの衣装もステージも汚さなかった。
しかししっかり動画に撮っていた「ハッコウ」たちに公開・検証された結果、キルトの見事な手際も含めて「#アイドルなのにゲロ」「#だがステージは汚さないアイドルの鑑」といった不本意な形でバズり、やがて「シンプルに引いた」「汚い」「胃の中身までは推してない」などの声が目立ち始めると複層的に引リツなどでの争いが加速しつづけゆるやかに炎上状態へと変化していった。
低く重くひびくバスドラムが畳みかける、音楽が止むとアリスは青白い顔で客席に向かい、笑った。
*
ステージ裏で汗だくのレンが、「アリス! マジでありがとう! ほんと、ワイだけの声ではまったく大事故になるところで……、」と言って声が詰まり、そして泣いた。
「結果、強がって、騙すことになって、ごめんなさい。ワイ、ほんとはすごく不安だった。声、出ないってほんとは分かってた。けど、どうしても「できる」って自分を誤魔化して、みんなも自分も騙して……」
アリスはきわめて動揺したまま、「いや、おれは……ほんとは……、もっとレンを助けてやらなきゃいけない……だけど、いや、ちゃんとそういうのはレンはメンバーに言わなきゃだめだ」と、息を切らしながら言った。
「だけどおれの実力不足で、いつもカバーしてもやれない。申し訳ない。さっきのはたまたま。やっぱりもう、きょうと同じことは二度とできないよ。ほんと喉を、大事にして」
「うん。わかった! ありがとう!」
シンイチにも「やるじゃん」と言われ両手グータッチを促されて、その仕草のくささと古さにアリスは再び吐気を催したがしかし、なんとか笑顔で応じた。
リュウにはバシバシ背中を叩かれ、「おまえー! できるじゃねえか」と言われた。
そしてキルトと目が合い、アリスは小声で言った。
「おまえ、分かってたのか? おれが、レンの代わりに歌って、そして、吐くって」
「まあ、いいじゃん。結果オーライよ」
「いいわけねえだろ」
ひとり暗い顔で、それを聞いていた、というか聞きにきたサトシが言った。
「おまえら、ちょっと来い」
そしてアリキルの腕を引っ張り、ステージに隣接するセントラルワールドモール内の人気のない一角まで連れ込んだ。
「知ってたのか?」と言った。「レンの喉が回復していないって。分かってたのか?」
「分かってたよ。けど、その話あとにしてくんない? アリスは体調が悪いんだよ」
キルトが応えた。たしかにアリスは青い顔をしている。冷房に晒された腕がきわめて冷たい。アリスの身体AIが自律神経系アラートを出し、強制仮眠をサジェストした。
それを却下し、アリスは「サトシごめん、けど、おれにもキルトにも、あれ以外できることはなかった。いまは休ませてほしい。ごめん」と言った。
言いながら、「サトシには「友愛の橙」がマジで覿面に効いたんだな」とアリスは思った。こんなにかんたんにおれらが未来人であることを信じるとは……。子どもの玩具みたいなもんかと思っていたが捨てたもんじゃないなと再評価するとどうじに、サトシが極めて「友愛」に飢えた個体であることもよく分かった。
「できること、あるだろ! 少なくともおれは、知らせてほしかった。力にはなれないとしても……。なあ、おれたち、うまく人に頼れない、大人を信頼できない、いまじゃろくに話もしない、そんなメンバーの集まりだけど、だけど」
「それ過去人の典型的なロジックだね。そんなことをいま話してなんになる? サトシのそれはじこまんぞ……」
「なんやと」
サトシはキルトの衣装の胸ぐらをつかみ、言われかけた「自己満足」をキャンセルした。
「いや、申し訳ない。サトシにはおれらの正体を知られている以上、相談すべきだったと思う。けど、ほんとに時間も、余裕も、なかったんだ」
「そうだぞ自己満野郎」
誤魔化そうとしたアリスの言葉を無下にするように、キルトの物言いはさらに悪辣を極めた。
「いい加減にしろよ。相談してほしいっていう、おれのこの気持ちがお前らにとっちゃ自己満足だっていうのか?」
「おお。でもべつに未来人だからってワケじゃないぞ。現代の価値観でもサトシのその気持ちは自己満足の仲良しごっこだっておれは思うな。レンにしたって、もっと早くパートを減らす相談をすべきだったんだ。鍼治療やこの時代程度の医学的ケアだけじゃなんともならないところに来てるって、本人は分かっていたはずなのに。たしかにレンの声なしじゃエコブラは立ち行かないよ。だからこそ、もっと頑張らない努力をすべきだろ。才能があるんだから。おれみたいに才能がないやつは頑張るしかないけど、才能がある人間はときには頑張らない努力をすべきだろ! 同じことをやってもな、才能あるやつは身体にかかる負担が凡人とは段違いなんだよ。自明のことだ。だから未来では才能判定で高い数字が出た人間は、対象の競技や表現ジャンルにおいては、すぐにAIアシストがついて自己満足的な努力を強制的にストップさせてるの。才能が開花しなかったケースのリスクヘッジも兼ねているけど、なによりそうしたほうが才能開花しやすくもあるんだよ。はっきりいって、レンはそういうレベルのダンス&ボーカリストだよ。あーあ、なんで過去人はこう、非合理的で間抜けなのかな。まったくついてけないわ、そういうとこ」
胸ぐらを摑まれながらもキルトは饒舌にまくしたてた。
「マジ意味わからんけど、とりあえず殴りてえ」
だが、キルトがそこまで分かってダンスもボーカルも人一倍努力しているということに、サトシは複雑なおもいを抱きはじめてもいた。
自分に才能がないことに向き合い、それでも練習をくり返してダンス&ボーカルにこだわる。
才能がないからこそ努力でき、どれほど努力をしても才能に遠く及ばない。
キルトはそれを完全に理解したうえで日々を精一杯生きている。そのことへの畏怖が、しかしなぜかいま殴りたさにもつながっていて、混乱した。
目の前の身体はよく訓練された均整のとれたバランスでそこに在って、目尻に向かってゆるやかに吊り上がる目が自分を睨みつける、そのまなざしが強い。複雑でぐちゃぐちゃなメンタルに陥ったサトシは泣きかける。
「なんなんだよ。マジで、ここ数日、お前らが未来から来たって、強制的に信じさせられたみたいにへんな感覚で情緒ぐちゃぐちゃで、なおかつ、レンも調子悪くて、おれら、リュウのリーダーシップで練習のモチベーションをなんとか保って、そのおかげでいい楽曲にめぐりあえて、ようやくこれからってときに、なんでこんなボロボロなんだよ……」
「ごめん、そうだな、サトシにとったら、」
そこで再び嘔吐感を覚えたが、もう吐くものが胃の中に残っていなかった、アリスの体調が限界を迎えようとしていた。キルトは自分の混乱にアリスを巻き込むサトシの態度に怒りを抑えられない。
「あのなあ。はっきり言うけど。エコブラはあと一年で解散するんだよ。レンの体が限界を迎えて、それに合わせて空中分解すんの。そしておれたちはその史実に関与できないの。だから、アリスはレンのボーカルを代わることを躊躇ったんだよ。おれたちはその未来を変えてしまったら未来に強制送還されるし」
「は?」
サトシはキルトの発言に動揺したが、それは言っているキルト本人にとっても同じだった。発言の強さに比して声が震えていき、未来人らしからぬ過去人への感情移入に身体が動揺した、これで双子ともども身体アラートがかかった。アンガーマネジメント物質の注入もサジェストされた、しかしそのすべてを振り切って、キルトは発言を続けた。
「その瞬間、おれとアリスはお前たちの記憶からも消え去るの。つまり、エコブラが一年後に解散しなかったり、もっとはやく解散してしまったりしても、免許失効とともに、メンバーの記憶からおれらいなくなるよ。おれらのタイムトラベル免許は五年で切れるし、そういう意味でエコブラは丁度よかった。お前らの「夢」の挫折をおれら、利用しにきた。それは申し訳ないけどな。人から忘れられるのはおれら慣れてる。けどなあ、いくら未来人っていったって、哀しいって感情に慣れることはないんだぞ」
アリスはふたりに聞こえるか聞こえないかの小さな、無個性な声で歌った。
光の刺さらない心で/残酷な夢をおれら永遠に/追い求めるよ
絞った声でもまるで張り上げる声質と変わらず、プレーンにそこまでの高音が出せるのかと、動揺した心でサトシはしずかに感動した。
(1章おわり)
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