「あのときの私と、あなたを救ってあげたい」──そう語るのは、歌手の和田彩花。15歳から25歳まで、女性アイドルグループ・アンジュルム(旧スマイレージ)の元メンバーとして活動していた。
本連載では、和田彩花が毎月異なるテーマでエッセイを執筆。自身がアイドルとして活動するなかで、日常生活で気になった些細なことから、大きな違和感を覚えたことまで、“アイドル”ならではの問題意識をあぶり出す。今回のテーマは「アイドルとフェミニズム」。
目次
10〜20代のころ、ずっと考えていた「自分は何者なのか?」
ずっとわからなかった。なぜスカートを履きたくなくて、料理ができれば完璧だと言われることに嫌悪感を抱いて、好きなタイプを聞かれるときは相手が男性であることを想定するのか、ずっとわからなかった。
10代から20代にかけて、私の頭の中にある関心は、自分が何者かについてだった。
大学のフランス文学の授業で、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの「人は女に生まれるのではない、女になるのだ」(著書『第二の性』より)という一文を見たときの衝撃は今でも忘れられない。
私と同じことを考えている人がいる。どうやってこの感情を言葉にしたらいいかわからないけれど、私の考えていることは確実にここにあると、初めて“私”が存在した瞬間だった。
人生のどこかで自分について考えなければ生きられそうになかった方々は、そんな私の気持ちに心を寄せてくれた。
けれど、時々はっとさせられたのは、自分の正体を考えなくても生きていける人のほうが多いのかもしれない、ということだった。
アイドルの世界で女性たちに囲まれた経験からよくわかっていた。だから、いつも彼女たちだったらどう理解するだろうかを考える。いつでもあのときの私を、あなたを救ってあげたいし、救ってほしい。
“もうひとりの自分”と会話をしていた、15歳の私
「日本一スカートの短いアイドルグループ」として15歳でデビューした。多忙だったため、仕事をこなすだけで一年が終わった。それ以外の感情はあまり覚えていない。
このときの私はまだ自我が芽生えていなかったので、ひとりマイペースに働いた。15歳の私には、どうしたいとか、こうなりたいとか、そういうことを考える思考もなかった。
そんな私に唯一できたことは、まわりの仲間や大人が話していることを聞いて、“もうひとりの自分”と会話をすることだった。
仲間が「水着になるのは嫌だ」と言ったときには、仕事だから仕方ないのにと思っていた。自我は持っていなかったけど、従うべき価値観は、事務所の人が言うこと、またはほかの先輩がやっていることなのだと、15歳でも認識したようだ。
マネージャーさんに怒られると、仲間たちはたまに弱音を吐いた。それを見て、いつかみんなグループを辞めて自分はひとりになってしまうかもしれないな、ひとりで仕事なんてできないな、どうするかな〜というところまでよく妄想していた。
こんな調子で働いていたものだから、時々バカにもされたけど、それでも私はマイペースであることをなぜか手放さずに済んだ。
美術に目覚め、勉強と仕事を詰め込んだ高校時代
そのうち、グループの形態や状況がガラッと変わって、高校生のうちにアイドルの酸いも甘いも知った。
そのころの私は、15歳から目覚めた美術に大きく関心が傾いて、仕事しているか、美術館にいるか、学校にいるかの生活をしていた。高校生のころ好きだった絵は、オランダの風俗画とイタリア・フランスの宗教画。
高校2、3年生にもなれば、(当時の私から見た)事務所の大人や、先輩の言うこと、やることが正しいと思うようになっていた。母に「事務所に苦情を言わないで」と言うくらい、忙しいのがありがたくて、体調が悪くても仕事をすることは絶対だと思った。
美術史を学ぶために大学に行きたいという意志を持ち始めて、勉強するようにもなった。勉強し始めたら、“もうひとりの自分”と会話していた言葉が、ぐんぐんと外に発せられるようになってびっくりした。
このころから、時間がある限り本を読み、先生から出された課題をこなす生活と仕事の両立が始まった。それ以外のプライベートな時間はない。主張や不満があるとすれば、もっと勉強したかったし、もっと授業に出たかった。
なぜ、誰にも声をかけられず帰宅することができないのか?
さて、大学入学と同時に私は群馬から上京した。
私にとって東京は、小学校低学年から通っていて、仕事をする場所。山手線に乗っていれば、どの駅を通り過ぎても、だいたい仕事の記憶が思い出される。
事務所に行くために使っていた路線は、今でも乗ると心臓がバクバクする。心の奥に沈めたあのときの出来事、人に言ったこと、言われたことがよみがえる。
もともと好きだなんてあまり思ったことのなかった東京は、上京したことにより、さらに居心地の悪いものとなった。
仕事終わり、21時以降に帰宅していると、路上で知らない人に声をかけられるようになった。1年に何回かではなく、ほぼ毎日だった。走って逃げると、スーツを着たサラリーマンが追いかけてきた。怖かった。
なんで歩いているだけで、声をかけられ、興味のない飲みに誘われるのか、なぜ頭からつま先まで品定めするように凝視されるのか、なぜ何事もなく帰宅することができないのかわからなかった。それから、主に男性から“好意を持つ対象”と認識されることが耐え難かった。
ある日、学校と仕事を終え、ジーパンにTシャツで帰宅しているとき、大きな発見をした。声をかけられない! なぜかはわからないけれど、何事もなく帰宅できる安心感を得た。
当時、私が住んでいたエリアでは、通勤する女性たちのバッグがみんなブランド物だった。街を飾るモノグラムを見て、今まで住んでいた群馬との違いにクラクラした。
ここは私のいるべき場所じゃないな、と思った。
ピンクの服を脱ぎ捨て、鎧を装着するようになった
あるとき妹に、唇の色がないから赤いリップをつけたほうがいいと言われた。それがメイクや自己表現に目覚めるきっかけだった。芸能と関係なく生きていた妹は、年頃の関心事をきちんと身につけていた。私よりも大人びていた。
あなたの学生時代を思い出してほしい。前髪の角度や流れ、髪型を気にしたり、メイクやファッションに興味を持つようになったりした思い出があるのではないだろうか?
大人になるために通過する“自己を探る時期”を、私はいつの間に手放していた。想像しにくいと思うが、価値観が強固な場所では、年頃の関心事さえ入ってきにくくて、時にはそうする自由もない。
人間が成長する過程を歩まずに、どうやって大人になるというのか。
大人びた妹の姿を見ていると、自分の好きなものってなんだっけ?と思うようになった。私のいる場所でいいとされていること、当たり前になっていることではなく、私の好きなこと、なりたい人間像を探した。
それまでの私は、幼いころから好きだったピンク色を身にまとい、花柄のAラインのワンピースなんかもよく着ていた。女子大に通っていたこともあって、まわりの目を気にすることなく、好きだと思うものに包まれていた。
けれど、ふと立ち止まると、私はシンプルで、モダンなものが好きなんじゃないかと思い始めた。このころ、クラシックな絵画よりも現代アートに目覚めていたように。
レースではなく、変わった形の服が着たいと思うようになった。当時は言語化できなかったけど、ピンクのワンピースが社会的に女性性を象徴するものであることを路上のナンパから理解していたため、その反動もあって、ピンクを脱ぎ捨てた。黒と白ばかりになった。ズボンばかりになった。
鎧を装着するように、変わった形で、力強くて、個性的なものばかり着るようになっていた。最も自信を持たせてくれる濃い赤いリップは、毎日つけた。
アイドルの仕事における「私の権利」とは
大学では、女性のキャリア形成について、女性アーティストの立場について、被差別部落の差別について、ポール・ゴーガンの作品が植民地で描かれたことについて、シモーヌ・ド・ボーヴォワールの『第二の性』について勉強していた。
レジュメに書かれたフェミニズムやジェンダーという単語とその概念を何度も頭で反芻して、とうとう私の日常の煩わしさとすべてが結びついた。
ああ、この社会ではこんなにも簡単に「女性性」が自分に結びつけられるし、それは「わたし」個人の表象でも、言葉でもなんでもないのだと思った。
日常と学校でそんな大発見をしている一方で、アイドルの仕事における私の権利なんて考える余地も未だなかった。
なぜなら、小学生から正しいことと悪いことが完全に決められた世界で生きてきたため、信じている価値観、心の拠りどころを疑うというのは、自分を破壊することに近かった。だから、そう簡単には疑えない。
あれは2014年の夏休み。ライブツアーで、1カ月まるまるライブハウスを巡る過酷なスケジュールをこなした。初めて、ステージで「もう無理だ」と思った。
毎日偏頭痛がして、眠気が取れなくて、体が鈍りのように重かった。ちょうど大人になる境目だったため、歌詞と自分の心のギャップに苦しんで、もう歌いたくないと思いながらステージに立っていた。
加えて、ホテルと会場を往復する毎日で、自由に外に出ることもできなかったため、簡単に精神は追い詰められた。身も心もズタズタだった。もう動けないと思いながら、ステージに立った。
価値観に支配されるって、きっとこういうことだろう。無理なのに動かなければいけない、というところまで来てしまう。
それなのに、あのときの苦労は私の中で根性論を強化する理由になった。後輩が体調不良で休むことも理解できなかった。なぜなら、私はあのとき無理してでも動いたから、あなたにもできる、と思い込んだ。
その一方で、恋愛の歌詞をなぜ歌わないといけないのか。それがなぜ主に男性に向けられ、女性を演じる必要があるのか。なぜ大人になる道がどうやっても見えてこないのか、という疑問を抱き続けた。
数々の疑問と、頭の中で強固なものになっていた根性論は、矛盾しながら私の中をうごめいた。どちらも自分を大切にすることには変わりないのに、そんな簡単なことにも気づけなかった。
アイドルの人生そのものが、絵画の女性のようだ
美術館で絵画の中の女性を見ているときに、これは私だ、と思った。
ヌードで描かれ、ラインが強調される身体表現、見られることを意識したモデルの姿は、そのままアイドルのブロマイドや、グラビアの表現に重なった。
なぜカメラの前で追われたような表現をしなければいけないのか、「もっと笑って」と言われるのか、水着になるのか、ようやくわかった瞬間でもあった。
私は、誰かにとって見やすい、つまり受け身の姿勢で、時にか弱く、または追われるようにしていなければいけなかった。それは私「個人」ではなく、「受動的な女性像」のイメージであることに、絵画と自分の経験を通して気づいた。
そのような表現は、私のするべきことではないと思ったので、上目遣いになる角度を取らず、いつもカメラを睨みつけた。
簡単に自分を手に入れることはできない。まずは抵抗、反抗する時間が私には必要だった。ある一部分を取って、それは自由ではないとか、逆に自分を苦しめているとか、そのような指摘は私に必要ない。自由は、抵抗、反抗しなければつかめないから。
残念だけど、それはカメラの前での話だけではなかった。ひとりのアイドルの人生そのものが、絵画で描かれた女性のようなものだった。
私は、結婚も子供を持つことにも興味がなかったので、まず仕事をしたかった。経済的にも精神的にも自立できる人生が続くことを願ったし、名字を変えることなく、私個人の人生を続けたかった。
誰かに養われる必要はないし、婚姻制度を使う必要もなかった。誰かに彩られる私ではなく、自分で彩る生活が欲しかった。
当たり前なことなのに、2020年以前はこう主張する私がまだまだおかしな目で見られる社会だった。グループ卒業を視野に入れるようになった23歳ごろから、この世は腐っていると思い始めた。
妹たちの人生が少しでもいいものになるように
そうこうしているうちに、自分の目指すべき人間像と求められるアイドル像のギャップとのストレスで、精神的にバランスを崩した。
もうここまで来ては、自分を破壊するしかなかった。これまで信じてきた正しさ、価値観すべてを手放して、もう一度自分で価値観を構築するしか方法はなかった。私が壊れていくことで、初めて人の痛みを知った。
最終的に学んだことは、人の痛みに寄り添って、ルールや正しさで判断しきるのではなく、話し合いで理解し合うことと、個人主義と愛でいろんな困難を乗り越えることだった。それが私の価値観になった。
「誰と戦っているのか」とよく聞かれたけど、誰かではない。会社や社会で当たり前とされる価値観、空気、慣習のすべてだ。
いろいろなことがあったけど、私ひとりですべてを乗り越えたわけではない。ここまで人として私を成長させてくれたのは、グループ時代一緒に過ごした仲間であり、妹であるみんなだ。
みんなの前では、学んだ理論も時には必要ない。みんなが、「私たちが最高で大好き」という気持ちだけで、軽々しくいろんな出来事を超えていく存在だった。
10代、20代の若さで、すべての感情を教えてくれて、私たちの正義である「愛」を教え、共有してくれた。
妹たちのこれからの人生が少しでもいいものになるように、私の方法でいろんな問題を話していきたい。
これが私のフェミニズムであり、世代間とのつながりのすべてである。
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