咳のできない世界に住みたいですか(荻原魚雷)

2020.3.6

文=荻原魚雷 編集=森山裕之


デビュー作『古本暮らし』以来、古本や身のまわりの生活について等身大の言葉を綴り、多くの読者を魅了しつづける文筆家・荻原魚雷。高円寺の街から、酒場から、部屋から、世界を読む「半隠居遅報」。新型コロナウイルス騒動の中の世界で何を考え、どのように人と対し、どう生きるのが正しいのか。私たちはどんな世界に住みたいのか。

感染者が加害者でそうでない人は被害者というゾンビ映画のような構図

花粉症の妻と午前中、薬局に行くとすでにマスクの整理券が配り終えたあとだった。その薬局でおばあさんがレジで大きなくしゃみをした。レジに並んでいた客がさっと距離をとる。おばあさんは「花粉症のくしゃみなの」と小さな声で弁解していた。

電車の中でマスクをしている人が咳をしてもピリピリした空気になる。さっと席を離れる人がいる。咳くらい出るよ。人間だし。

わたしは寒暖差アレルギー持ちなので暖かい室内から外に出ると咳が出る。お茶を飲むか飴をなめれば症状がおさまる。だから外出するさいは、お茶をいれた水筒と飴が欠かせない。

それでも咳は出る。ガマンしても出る。否、ガマンして止められるなら苦労しない。

だから外出時にマスクをするかどうか迷う。家にあるマスクは数が限られている。限られたマスクは花粉症の妻がしたほうがいい。そう思って、なるべく家にひきこもっているのだが、おそらく新型コロナウイルスが収束しても、いわゆる咳エチケットに対する厳しさは残るだろう。

関川夏央著『「名探偵」に名前はいらない』(講談社文庫、単行本は1988年刊)に「仕事は一流、営業は五流」の探偵が何者かに命を狙われるシーンがある。

名探偵だから当然敵がいてもおかしくない。ネタバレになってしまうが、話を進める上でやむをえないので命を狙われた理由をぼんやりと書くと、探偵が満員電車に乗っているとき不意にアレをしてしまって、その恨みによる犯行だと……。

関川夏央『「名探偵」に名前はいらない』講談社文庫

昨今、咳やくしゃみに対して不寛容になっている。電車の中で咳をして喧嘩になったというニュースもあるくらいだ。

といっても、昔から飲食店などで咳やくしゃみをすると睨む人がいた。他人の咳やくしゃみに対する耐性のようなものが著しく欠如しているともいえるが、睨む人からすると咳エチケットの問題なのだろう。

今の若い人はくしゃみをコントロールしている人が多い。電車の中で加藤茶のようなへえ~っくしょん系の大きなくしゃみをするのはたいてい中年以上の人たちだ。

その中年たちも自分が咳やくしゃみをするのは仕方がないが、他人がするのは許せない。

今回の新型コロナウイルス騒動を見ていると、感染者が加害者でそうでない人は被害者というゾンビ映画のような構図が見える。

わたしたちは誰もが「感染する/感染させる」可能性がある。自分が感染した途端、加害者になる。

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荻原魚雷

(おぎはら・ぎょらい)1969年三重県鈴鹿市生まれ。1989年からライターとして書評やコラムを執筆。著書に『本と怠け者』(ちくま文庫)、『閑な読書人』(晶文社)、『古書古書話』(本の雑誌社)、編著に『吉行淳之介 ベスト・エッセイ』(ちくま文庫)、梅崎春生『怠惰の美徳』(中公文庫)などがある。毎日新聞..

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