【連載】お笑い平成カルチャー史 #1 千原兄弟との出会いと吉本印天然素材(語り手:松本真一 聞き手:白武ときお)

編集=福田 駿 文=鈴木 工


IPPONグランプリ、リンカーン、キングオブコント、ドリームマッチ、ケータイ大喜利、あらびき団、ざっくりハイタッチ……etc 平成のお笑いを彩るメインカルチャー。この連載では、千原兄弟の座付作家として、数々のメインストリームの番組に携わる放送作家としてお笑いを作ってきた松本真一氏に、当時視聴者としてテレビにかじりついていた白武ときおが、お笑い好き少年さながら平成お笑いカルチャーを訊ねる。#1では、のちに座付作家となる千原兄弟との出会い、そして当時お笑い界をざわつかせたとある下剋上の歴史について語ってもらった。

『お笑い平成カルチャー史』 #0はコチラ

松本真一
(まつもと・しんいち)1972年生まれ、大阪府出身。放送作家。千原兄弟の座付作家を務める。『あらびき団』(TBS)、『着信御礼!ケータイ大喜利』(NHK)、『キングオブコント』(TBS)、『IPPONグランプリ』(フジテレビ)などの立ち上げに参加。現在は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ)などを担当する。NSC大阪校10期生。

白武ときお
(しらたけ・ときお)1990年生まれ、京都府出身。放送作家・YouTube作家。『みんなのかが屋』『しもふりチューブ』『ざっくりYouTube』(YouTube)、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』(日本テレビ)、『かが屋の鶴の間』(RCCラジオ)などを担当。【ツイッター】@TOKIOCOM 【メール】[email protected]

千原兄弟が自分のネタをやってる、ウケてる

松真さんと千原兄弟さんはどうやって出会ったんですか?

養成所を出て芸人になったけどオーディションに受からんくて、結局卒業半年ぐらいでコンビを解散したのよね。同期のメッセンジャー黒田(有)とジャリズムの山下(しげのり:当時)と同じスナックでバイトをしながら、「なんかやらなあかん」と思って発表するあてもないのにネタだけずっと書いてた。そうしたら、「(千原)ジュニアさんがコントを考えられる作家を探してる」っていう話を聞いた山下が俺の名前を出したみたいで。同期ライブのユニットコントを書いてたからやと思うんやけどね。

そのころ、千原兄弟さんは劇場とかメディア露出はどんな状態なんですか?

ちょうど千原兄弟が『怒涛のくるくるシアター』(読売テレビ)っていう深夜番組に出始めていたころで、ネタを観て「おもしろいな」と思ってた。ほんで、ジュニアさんが一回どんなやつか会わせてくれということで、そのスナックに来てマンツーマンでしゃべったのよ。

※怒涛のくるくるシアター:1990年から読売テレビで放送されていた深夜バラエティ番組。のちの吉本印天然素材につながる「しねしね団」をメインに、当時のアングラ芸人も積極的に起用していた。

ジュニアさんはNSCの2期上ですよね。近い先輩って感じですか?

めちゃめちゃ上の人って感じやったなあ。風貌はもちろん、普通に背も高いから「おーっ」って圧倒された。それで後日、打ち合わせすることになって。当時千原兄弟さんはショートコントをやってたから、ネタのタイトルと展開を7、8本書いて渡したら、「これとこれ、おもろいな。なんかできそうやな」っていう反応で。俺としては日頃溜めてるネタをジュニアさんに見せて、自分が本当におもしろいのか、間違っていないのかを確認したいっていうのもあったし。

松本真一(左)、白武ときお(右)

その後(心斎橋筋)2丁目劇場に千原兄弟の出番を観に行ったのよ。観たことのある千原兄弟のネタをポンポンやったあと、俺が提出したネタが始まって。普通にドンってウケたのよね。“千原兄弟さんがやってる”からウケてるってことはわかるんやけど、自分がアイデアを出したネタが自分がやらんでもお客さんに伝わってウケている、というのが今までにない感覚で。出番終わりにジュニアさんが「またお茶しようか。次いつ空いてんの?」って声をかけてくれた。そこから2丁目劇場に通って、千原兄弟さんのネタやソロライブも手伝うようになって。

当時、千原兄弟さんはソロライブをどれぐらいのペースでやっていたんですか?

2丁目劇場で『はじめ』というソロライブを、2カ月か3カ月に1回ぐらいのペースでやってて、その10回目を総集編みたいな感じで、キャパ2000人ぐらいの厚生年金会館ホールでやった。大きい会場でやったあとは「今度はライブハウスで全国ツアーをしたい」ってジュニアさんが言い出して、95年の夏に『ギャグギグツアー』をやったね。車2台で全国8カ所を回って。

どんなライブだったんですか?

1分から1分半ぐらいのコントをたくさんやるライブよね。10秒くらいで終わるネタもあって、ショートコントよりも短いから「マッハコント」。暗転中にタイトルコールして、明転したらコントをやってオチたら暗転になって曲が流れる、というのを連続でやるのよ。全身黒タイツで、エプロンをつけたらお母さん、ジャケットを着たらヤクザになる。途中でトークをやって、また後半にコントをやるみたいなツアーだった。

そのころ、東京だとバナナマンさん界隈から単独ライブシーンが盛り上がっていったと何かで読んだことがあります。バナナマンさんの初単独『処女』が95年で、『ギャグギグツアー』とちょうど同じ時期ですけど、東京のライブシーンは意識してました?

僕自身の話でいうとシティボーイズさんの単独ライブがおもしろくて、ビデオをけっこう観てた。バナナマンさんももちろん知ってたよ。ジュニアさんもチェックはしてたんじゃないかな。

当時の大阪のソロライブって新ネタを何本かやって、あとはコーナーをやったりゲストを呼んだりするのが主流だった。そんな中で、シティボーイズさんやバナナマンさんみたいにネタだけの単独をしたのは大阪ではたぶん千原兄弟が初めてだったんじゃないかな。その先駆けが96年の『金龍飛戦』という単独で。

もうそのころ、千原兄弟さんの知名度は高かったんですよね?

そうね、大阪ではMCクラスやったから、テレビに出るためのネタはもうせんでもいい雰囲気だった。それもあってか、単独ではそれまでやってたテレビ的なサイズ感とは違うもの──演劇寄りとまではいかなくても、銀行強盗や診察室のようなよくあるやつではない、もう設定から「なにこれ?」というネタを考え出してたんじゃないかな。その傾向が『金龍飛戦』で強くなって、作品性を高めていく入口になる。それ以降は1年に1回ネタを8本ぐらいやるパッケージになっていった。

そのあたりのコンセプトは話し合いで詰めていったんですか?

こういうライブを目指そうという話はしてないけど、こんなふうに見せたいという根幹はジュニアさんが決めてた。僕は、こんな設定やってみたらどうですかって提案したり、ジュニアさんの考えがどうやったら実現するかを考える係。千原兄弟のライブは良くも悪くもめちゃくちゃパワーを使ったね。

順番に売れる、そのパターンが崩れた

千原兄弟さんの人気が大阪で高まる一方、全国区では(吉本印)天然素材が躍進していたわけですよね。

※吉本印天然素材:雨上がり決死隊、ナインティナイン、FUJIWARA、バッファロー吾郎、チュパチャップス、へびいちごをメンバーとするダンス&お笑いユニット。1991年結成、1999年に解散した。

天然素材の結成って何年ですか。1991年? じゃあ僕らが養成所卒業する前に、もう始まってんねんな……。東京で番組を制作して全国に発信するユニットとして誕生して、最初はぜんじろうさんがリーダーで、山崎邦正さんのいたTEAM-0さんも入ってて。あとで聞いたんやけど、千原兄弟さんはオーディション受けて落ちてるんですよね。

天然素材さんはどんな印象でした?

印象も何も、みんな先輩ですからねえ。雨上がりさんはおもしろかったし、バッファロー吾郎さんも2丁目劇場で最初に観た芸人だから、思い入れがあった。FUJIWARAさんも、『(とんねるずの)みなさんのおかげです』(フジテレビ)のような雰囲気を出していて、おもしろかった。でも、僕らがNSCを卒業してしばらく経ったら天然素材は東京に軸足を移すことになって劇場を卒業するのよ(93年)。前も言ったけど、それで劇場から客が一気にいなくなって。

ダウンタウンさんで集まったファンがいなくなり、天然素材のファンもいなくなっていく。卒業した天然素材がブームになっていったと。

ただ当時、今みたいに東京の情報って大阪に届かないのよ。天然素材の番組も大阪でやってなかったし、「すごい人気らしい」という風の噂だけ聞こえてきてた感じ。そんな状況で、『とぶくすり』(フジテレビ)とか『ぐるぐるナインティナイン』(日本テレビ)とか、急にナインティナインさんの番組が増えていくから「何が起こっているんだ?」とは思ってた。天然素材は一番上が雨上がりさんで、上から順番に売れていくものと勝手に考えてたから、下から後輩が“まくる”のが意外で、そこの感覚は当時わからなかった。今思えばキャリアの浅い若手が飛び級でドンと上に行く現象は当たり前なんやけど。

その後も、キングコングさんやオリエンタルラジオさん、各年代で起こってますよね。

小さいころからテレビを観てて、歴史でいうとクレージーキャッツがおって、欽ちゃん(萩本欽一)がおって、(ザ・)ドリフ(ターズ)がおって、とんねるず、ウッチャンナンチャン、ダウンタウン……と年長者から順番に売れていくのを見てきて、先輩芸人を追い越す下克上が理解できなかった。一方で一番輝く若手に抜かれていった芸人が力を蓄えて、次の時代に売れていく。それは天然素材の時代でいったら、雨上がりさんであったり、FUJIWARAさんであったり。その現象は今でもつながってるよね。今は第7世代ブームからこぼれた若手が、活躍するターンになっているし。

それから大阪の劇場はどうなっていくんですか?

主力がごっそりいなくなったから、僕の同期、養成所を卒業したての10期生は出番がすぐもらえたのよ。千原兄弟さんたちを中心にした『WA CHA CHA LIVE』(92年)が始まって、劇場と連動した『2丁目ワチャチャTV』(テレビ大阪)の放送が始まったことによって、劇場にまた人が戻ってきた。そのあたりから新しい世代の、第3次2丁目ブームが起こる。

※第3次2丁目ブーム:第1次はダウンタウン世代、第2次は天然素材世代に当たる。この第3次2丁目芸人は総称して「ワチャチャ芸人」と呼ばれることがある。

2丁目メンバーのテレビ番組も増えていた印象です。

2丁目劇場のメンバーが増えてきたころ、ABC(朝日放送)で始まったのが『笑いの剣』(94年)やね。圭修(清水圭・和泉修)さんと130Rさんが司会で、2丁目メンバーが反乱軍と帝国軍に分かれて、ネタやユニットコントやVTRでバトルする番組。それが半年で終わって、次に始まったのが『すんげー!BEST10』(95年)。お客さん票でユニットをランキングして、上位6組しかオンエアされない企画で、この番組で2丁目人気が確定した感じやった。それがしばらく続いたあと、千原さんは96年に東京進出するのよ。僕はその後もしばらく大阪に残るんやけどね。

※笑いの剣:1994年から朝日放送で放送されていた関西ローカル番組。番組内容は本文のとおり。千原兄弟やジャリズム、メッセンジャーなど当時の2丁目芸人が多数出演した。

※すんげー!Best10:1995年から『笑いの剣』の後続番組のかたちで始まったネタ番組。千原兄弟はMCを務め、ワチャチャ芸人が出演者の多数を占めた。ネタ以外にも千原兄弟によるトークコーナーもあった。

次回「テレビスター、ロンブー・オリラジ編」に続く

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鈴木 工

(すずき・たくみ)ライター。雑誌『プレジデント』、『芸人芸人芸人』など、芸人関係からビジネスまで執筆する。

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