BUMP OF CHICKENが邦楽シーンに与えた影響を考える

2023.2.5
ヒラギノ

文=ヒラギノ游ゴ 編集=梅山織愛


活動開始から30年近いキャリアを積み重ね、今なお第一線で活動するバンド、BUMP OF CHICKEN。特に思春期に彼らの音楽と出会った人にとっては、心の柔らかい部分に刻み込まれた替えの利かない存在といえ、のちの邦楽シーンにも多大な影響を与えている。

この国のポップミュージックにとって、またポップカルチャーにとって、BUMPとはなんなのか。また未来人たちにはこのバンドがどんな存在だったと顧みられることになるのだろうか。

“理解者”を希求する心に応える歌詞

BUMP OF CHICKENについて語るのなら、まず歌詞の話から始めたい。思うにBUMP OF CHICKENの、藤原基央の歌詞は、3つの大きな特異性によって形作られているのではないだろうか。ニヒリズムとレトリックとストーリーテリングだ。

ありきたりで無反省な情緒、身の回りの社会を秩序立ったものにするための自己欺瞞、衰えてしまった情熱、そういった誰しもに心当たりのあるうしろ暗い部分を、刺すでも斬るでもなくただ言い当てて、じっとこっちを見ている。

狂ったふりが板について 拍手モンです 自己防衛/それ流行ってるわけ? 孤独主義 甘ったれの間で大ブレイク

「レム」

こんな見方をしてくるのか、こんなふうに痛いところを突かれるのかと、自覚していなかった罪が暴かれるような痛烈なシニカルさ。そしてその刃は藤原基央自身の首元にも突きつけられている。本人も含めて触るもの皆傷つける。諸共誰ひとり逃れられないカルマを強烈に自覚させる。

また、そういったニヒリズムの根源にある観察眼は、人間のポジティブな機微・情動にも向けられる。

飛ぼうとしたって 羽なんか無いって 知ってしまった 夏の日/古い夢を一つ犠牲にして 大地に立っているって 気付いた日

「Stage of the ground」

孤独、感傷、自己嫌悪、厭世観といった内省的なテーマを表現する力に突出した歌詞は、リスナーからある種の信頼を勝ち取るに至った。ここまで克明に、生々しく表現できる人なら、“わかってる”はずだと。本当の惨めさを知っている人だと。

疑似恋愛の情動を消費行動として秩序立てることよってファンダムを形成するエンタメが数多く存在することは周知のとおりだ。BUMP OF CHICKENはある意味でその亜種、“理解者”を希求する気持ちに作品で応えつづけることでパラソーシャル関係を高度に構築してきたといえる。

“構文”を回避するレトリックの技術力

こうした鋭いニヒリズムを裏打ちするのは、類稀なレトリックの技術だ。

起きたら胸が痛かった 心とかじゃなく右側が

「モーターサイクル」

「胸が痛い」といえば心の痛み、失恋なのか罪悪感なのか、何かしらの挫折を想起させるもの、というような“構文”を、音楽市場は連綿と生み出してきた。ただ、自分たちの音楽に関してはそういうんじゃなくて、と、J-POP的な構文をドライにいなして、構文の先の表現をする。構文として成立しているようなもろもろのありふれた表現をかわすある種の“尖り”が、既存のJ-POPに親和性を感じないリスナーたちの心を掴んだ面も大いにあるように思われる。

こうしたレトリックの系譜としては、トリビュート企画への参加経験のあるthe pillowsに共通するものを感じ取ることもできる。

君といるのが好きで あとはほとんど嫌いで

「ストレンジ カメレオン」the pillows

the pillowsの、山中さわおの歌詞にはこういうあと出しの皮肉による厭世観、世界を丸ごと投げ出すような自暴自棄さが垣間見えることがある。「それを言っちゃおしまいじゃないか」というような、絶望が平熱で提示される感触。前述の「レム」ではこうだ。

誰かが呟いた 「汚れてしまった」/その肩を叩いた その手も汚れてた

「レム」

このように技術に裏打ちされた痛々しいまでに誠実な惨めさの描写が、単に音楽としての高評価を得るに留まらず、“理解者”としての信頼を勝ち取るに至った。

ストーリーテリングと後進への影響

「ラフ・メイカー」「ガラスのブルース」「グングニル」「K」「Ever lasting lie」など、特に初期の作品には、物語仕立てのものが目立つ。「くだらない唄」や「ベンチとコーヒー」のように我々の世界と地つづきなものもあるが、より多くを占めるのは海外の童話や寓話のようなファンタジー寄りの世界観のものだ。

こうした作風の影響は、邦楽ロック市場よりもむしろ初期のボカロシーンに顕著だという見方は巷でも語られているとおりだろう。直接の影響がどこまであるのかは別としても、楽曲を軸にした物語のマルチメディアプロジェクト『カゲロウプロジェクト』はそうした潮流を象徴する存在といえるかもしれない。

また、よく知られているように、米津玄師もBUMP OF CHICKENからの影響を公言するひとりだ。今よりずっと若かったハチ名義の時期はもとより、現在でもBUMP OF CHICKENの系譜を感じ取れるのがB面(タイトルトラック以外のシングル収録曲)の作品群だ。

「Lemon」にとっての「クランベリーとパンケーキ」、「馬と鹿」にとっての「でしょましょ」、「Pale Blue」にとっての「死神」。いずれのタイトルトラックにも大きなタイアップがついていて、いずれもJ-POP市場で好セールスを記録した作品だが、その影には思いきりダウナーなこれらの曲が猫背で佇んでいる。

おそらく往年のファンであればこのあと何が書いてあるかはおおよそ見当がついているだろうが、仕事なので無粋を承知で最後まで書く。

前述した米津玄師のシングルについて、どこまでBUMP OF CHICKENの影響によるものとするかについては慎重に検証されるべきだが、こうしたあり方には、BUMP OF CHICKENのデビューシングル「ダイヤモンド」を想起させられる。最後の最後までどちらをA面にするか悩んだというB面の「ラフ・メイカー」は、幸福な結末を迎えはするものの、やはりニヒルさが際立つ描写で多くのファンに愛される作品だ。

ある証言

ここに興味深い証言がある。2013年、折しもダブステップをはじめとしたEDM全盛の時代、メタリカのギタリスト、カーク・ハメットが語ったことだ。

面白いのはエレクトロニック・ダンス・ミュージックの速さというか、BPMに俺たちがどれだけ影響を与えているのかなということでね。というのも、ある時期まではメタリカというのは世界で最も性急なバンドだったわけだからね。音楽業界で最も速いバンドといえばメタリカだったし、俺たちのそういうところを見倣う連中もたくさんその後登場したわけだからね。同じようにエレクトロニック・ダンス・ミュージックではものすごくビートが速いから、俺たちに影響を受けたりしているのかなって思ったりするんだよ。今の音楽を作ってる人たちがね

rockinon.com「メタリカ、EDMは自分たちの影響を受けているんじゃないかと思う時があると語る」より

この言葉を裏づける存在としてスクリレックスが挙げられる。当時ダブステップ(厳密にはブロステップ)のトップランナーとして一世を風靡していたスクリレックスは、もともとポストハードコアやスクリーモ、メタルコアのジャンルに括られるバンドのヴォーカリストだったのだ。このように、少年時代に聴いていた音楽は、のちに違ったジャンルの担い手になったとしても影響を及ぼし得る。

ラッパーとして大きな成功を掴んだマシンガン・ケリーが子供時代のフェイバリットに回帰してパンクロッカーに転身した例も同様。ジャンル単位でいえば、パンクという概念の誕生以前にイギリスの若者たちがパブロックを聴いていたことが、ロンドンパンクの勃興にいくらかの影響を及ぼしているとする考察もある。

長々前提を書き連ねたが、上記の例と近いことをBUMP OF CHICKENもしているという話をしたいのだ。「RAY」の発表がそうだ。この曲で藤原基央は、かねて影響を指摘されてきたボカロシーンの象徴、初音ミクとデュエットを果たした。

このコラボレーションには感慨深いものがあった。実際どれくらいの割合のファンが喜ぶものだったのかは別として、こんなに俯瞰で自分たちの存在を捉えて、企画を仕掛けてくるのか、という。なんにせよ、この企画によってBUMP OF CHICKENと初音ミク・ボカロカルチャーには一定以上の親和性があるという認識がオフィシャルなものになったといえるわけで、文化史的に熱い展開といえる状況なのだった。

タイアップの“創作面での”有効活用

また、ポップミュージックの気運の変化に寄与したと考えられるのが、タイアップに対するスタンスだ。

顕著な例のひとつが、『ポケットモンスター』スペシャルミュージックビデオ『GOTCHA!』に提供した楽曲「アカシア」だ。

君の一歩は僕より遠い 間違いなく君の凄いところ/足跡は僕の方が多い 間違いなく僕の凄いところ

「アカシア」

ポケモンをプレイしたことがあれば、この一節を聴いて自然とトレーナーとポケモンが並んで歩く姿が想起されるはずだ。

トレーナーはレッドなのかルビーなのかブラックなのか。隣にいるポケモンはヒトカゲなのかミズゴロウなのかツタージャなのか。もしくはサトシとピカチュウか。世代によって人によってさまざまだとしても、それぞれの冒険の記憶が蘇る。しかも、この「僕」をピカチュウや始まりの3匹くらいの体長と仮定するならば、これはポケモン側の視点から書かれた歌詞だ。この表現力、そしてタイアップ作品と切り離してもまったく魅力が目減りせず単体で機能する普遍性。

さらに遡ると、主題歌だけでなく劇伴も担当した『テイルズ オブ ジ アビス』に提供した「カルマ」も特筆すべき楽曲だ。こちらもタイアップ作品の要素が歌詞に“取り入れられている”という次元ではなく、タイアップ作品の世界観に立脚した歌詞が書かれている。これに関してはゲーム本編のネタバラシになりかねないので詳細な説明は割愛するが、つまりはそれほどまでに高度に物語の本質を抽象化した寓意がなされているということだ。

これらの例からわかるように、BUMP OF CHICKENはタイアップ(特にアニメ・ゲーム)に強い。強いというのは、タイアップ元の作品を咀嚼し、的確に解釈し、楽曲に昇華する能力が高いということ。

少し時代を遡ってみてほしい。具体的な歴史上の“出来事”ではなく、抽象的な時代の“ムード”というのはどうにも言語化しにくく、のちの世で恣意的に修正されがち、というのはカルチャー史においてよく指摘されることだ。

小沢健二もナンバーガールも、クラスに聴いている人がわずかにしかいなかったのに、活動再開のニュースを受けてまるで世代みんなが大好きだったかのように語られる、というような話。

だから声を大にして言っておきたいのは、タイアップ元の作品に寄せた内容の曲を作ることに対するモチベーションって昔は全体的にもっとずっと低くなかったか?ということだ。

むしろタイアップ元のことは気にせず、独立したテーマで楽曲を作る、というスタンスのほうが優勢だったのではないか。

アニメとのタイアップにヒットチャートで戦えるクラスのミュージシャンが起用され始めた初期のことを振り返ってみる。幕末の人斬りがもう二度と人を殺さないと誓いながらも、過去の因縁からさらなる戦いの連鎖に身を投じる姿が描かれる物語の主題歌として採用されたのは、そばかすがコンプレックスな女の子の切ない失恋ソングだった。バスケットボールに青春を捧げる高校生たちを描いた物語のエンディング曲は、マニピュレーティブな男に人生を捧げ友人も趣味も何もかもを喜んで捨てていく名誉男性的な女性の姿が描かれるマインドコントロールめいたラブソングだった。

それくらいテーマがズレていてもいいものだった(ということになっていた)。

そうした風潮は、楽曲とのタイアップというものがビジネスとして成熟し知見が蓄積していくにつれ徐々に薄まりつつある。そしてKing GnuやOfficial髭男dismなど、タイアップ作品の内容を見事に楽曲へ昇華し、作品のファンから好意的に迎えられる作り手も続々現れている。そうした気運の醸成に、BUMP OF CHICKENのタイアップ楽曲が“成功例”として寄与した面もいくばくかあるのではないかと推測する。

次の展開へ

ここまで述べてきたように、BUMP OF CHICKENはさまざまなかたちで後世のミュージシャンに影響を与えている。ただ、今回は歌詞にフォーカスした限定的な内容に留めているし、さらに音楽以外のカルチャーにも話を広げれば、その影響範囲はもっとずっと大きなものだとわかるだろう。

そして、ここに挙げたような因果関係が推測しやすいもの以外にも影響は与えているはずで、中には当人が影響を受けていることを自覚すらしていない例もあるだろう。お笑いシーンにおける松本人志のように、その価値観がすでにシーン全体に溶け出している側面があると考えられるほど、ポップカルチャーにおける彼らの存在感は強い。

今後期待することとしては、BUMP OF CHICKENとまた別の影響源とのミクスチャーなおもしろい作り手が出てくるんじゃないかということ。BUMP OF CHICKENの系譜の世界観を持ちつつ、音は現代的なR&B踏襲とか、はたまた藤原基央直系の言語感覚で韻を踏むラッパーが現れるとか。BUMP OF CHICKENそのものの今後の活動と並行して、その影響の及ぶ先にも期待したい。

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