軍事史家・岡部いさく先生と語り合った「ドイツにはなぜトールキンが出現しなかったのか」問題(マライ・メントライン)
軍事評論家の岡部いさくと語り合って盛り上がったのは、意外にも軍事方面よりも、比較文化的話題。そこで提起された命題は「ドイツにはなぜトールキンが出現しなかったのか」で、文芸大国ドイツの謎を日本在住ドイツ人、マライ・メントラインは考えつづけている。
ドイツにはなぜトールキンが出現しなかったのか
岡部いさく先生といえばミリタリー/モデラー領域で英国スペシャリストとして超有名です。
『文春オンライン』で書いた英国王室ドラマ『ザ・クラウン』評にて岡部先生の助力をいただいた(マーガレット王女との悲恋で有名な英国空軍のエース、ピーター・タウンゼント大佐がエリザベス女王の夫であるエディンバラ公フィリップに飛行機の操縦を手ほどきする場面にまつわるアレコレについて)こともあって、先日、吉祥寺の「カフェ ゼノン」にて一緒にご飯を食べたのですよ。ちなみに率直な本音として「カフェ ゼノン」は美味い。食事が上質なのはいうまでもなくデザートドリンクの類がすばらしいし、アルコールの取り揃えもなかなかです。
で、我々の話題は当然、宿命の英独対決!……と思うでしょ。
違うんだなこれが。対決どころじゃなく多岐にわたって盛り上がってですね。意外なほどにミリタリー成分は低めでした。同席した私の夫は「フランス革命戦争&ナポレオン戦争期における英国海軍の得体のしれない強さについて」というネタを用意していたみたいだけど、そんな技を仕掛ける隙もなく比較文化的な話題がドッカンドッカン展開し、いつの間にか閉店時刻になっていた次第。
そして一番盛り上がったのは、というかすごかったのは!
岡部先生が提起した「ドイツは文芸大国で文化的な材料も豊富なのに、なぜトールキンが出現しなかったのか?」というお題です。トールキンはご存じ、超マスターピース的ファンタジー大河小説『指輪物語』の作者として有名ですね。
これは……実はすごい問いだ。
わかるようでわからない。いや、容易には言語化不可能だけど、そこに重要なサムシングがあるのはわかる。
偉大なファンタジー作家といえばドイツにもミヒャエル・エンデがいるじゃん!
偉大な全能的作家・詩人といえばゲーテが、シラーが!
偉大なファンタジー的バトル叙事詩といえば『ニーベルンゲンの歌』が!
文芸を超えた天才といえば、現代だけどフェルディナント・フォン・シーラッハが!
……と、岡部先生とともに4発シュートを放ってみたものの、ぜんぶゴールマウスの外に絶妙に逸れた感があります。これだというツボをうまく突けない。何かが決定的に違う。
うーーーむ謎だ。ここには何か磁気異常みたいなものが確実にあるよね。しかし本件の当日の追究はここまで、継続課題! と相成った次第でございます。
ドイツではハイカルチャー領域の所属
そんなわけでずっと考えてたんですよ。トールキンとは何か。何が彼のスペシャル特質だったのか。でもって伊豆は下田の観光PRの仕事に行って、目的と無関係な廃墟ホテルの写真を撮って盛り上がったりしながら、ふと私はある一点に気づきました。
トールキンは、そして彼の作品は、ハイカルチャーからもサブカルチャーからも愛され、リスペクトされている。
ということに。彼は言語学者としても立派な実績を残していますしね。しかもそれを「剣と魔法」の世界構築で巧みに活かしていたりして。
これだ。
これこそ、我々が挙げたドイツ文芸史の精鋭たちと異なる点。要するにドイツの四者はぜんぶ、基本的にハイカルチャー領域の所属なんですよ。ミヒャエル・エンデは日本では児童書的なイメージからとっつきやすい作家と思われがちですが、映画『ネバーエンディング・ストーリー』結末改変騒動の重さなどから窺えるとおり、実際は内容的に超シビアです。児童書っぽいのに児童向けでないともいえる厳しさがそこに。また、シーラッハは日本ではミステリ作家のイメージがありますけど、ドイツ本国ではあくまで「くせのあるアート系純文学/戯曲作家」という位置付けです。日本での彼の文壇的ポジショニングは、東京創元社から出版され、主としてミステリ業界で高く評価されたという現実的経緯によって生成された面が大きい。ただしこれはどちらが良い悪いという問題ではありません。(シーラッハ自身、自作が日本でエンタメ的に「リスペクト」されていることを意外と喜んでいる模様。ドイツの知的権威主義下では基本的にありえない角度からの評価なので)
そうすると、「なぜ」トールキン的な才能がドイツで出て来にくいのか、思考を進ませることができます。まずはドイツ文化市場の評価尺度の石頭ぶりが、作品に「文学かエンタメか!」という二択を過度に強要しているから、という解釈。これは確かに実際あるのだけど、それだけで全てを説明してしまうのはアイディアとしていかにも魅力薄です。
中二病的ドイツ要素の悪癖
さて、ここでちょっと思い出していただきたいのが「ファンタジー」というベース。思えば日本のファンタジー文芸には、きわめて頻繁にドイツ「的」な、それも中二病系「俺ドイツ」超カッケー! 的な要素が出て来ます。まさにその目的のための『創作者のためのドイツ語ネーミング辞典』(伸井太一先生・著)なる天才変態的な辞書まであるわけで、この精神ベクトルはまさに本物です。でこの、たかがボールペンのくせに「クーゲルシュライバー!」なカリスマ性というのは、たとえばティーガー戦車とかビスマルク級戦艦に付与された「一騎当千」的な呪物的カリスマ性にダイレクトにシンクロするものといえます。要するに、物語の構成要素のくせに物語以上に自己主張が強いというか、部分のくせに全体を呑み込む勢いがあるというか、ドイツ本来の(もしくは外部視点がドイツに期待する「らしさ」の)魅力を培養してパワーアップさせると、カリスマ性は豊かでも物語内で超扱いづらいシロモノとなり、結果的にドラマ総体が傑作になり難い、といえます。これを踏まえて先の岡部先生の質問を再構築すると、
萌えさせる中二病的なドイツ要素を充分に活かした、なおかつ内容的にもいけてる超本格ファンタジーが文芸大国ドイツから出てきてもおかしくないのに、なぜ出てこんのだ?
ということになります。すると答えは、
中二病的ドイツ要素の悪癖として、部分が全体を喰ってしまい、作品としての設計や戦略がどこかで破綻するから。
という感じですね。
こうしてみると、たとえばリヒャルト・ヴァーグナーの楽劇四部作『ニーベルングの指環』なんかは、ドイツ人が生み出した珍しく壮大なドイツ的中二病スペクタクルファンタジーであり、だからこそ異様な世界的カリスマ性を今なお維持しているのだなと思うけど、トールキンとかに比べると拡張性のものすごい低さが気になります。あくまで一代限りの凄さというか。あとやっぱりヴァーグナー自身の中二病感とかイタさとか、天才なのにすごくインチキくさいとか、ご存じナチとの親和性とかいろいろあって、「これをトールキン対抗のドイツ代表にします!」とはなかなか推せないのでありますよ。
なので、ドイツ人自身による「満足に足る」中二病ドイツ要素満載の傑作ファンタジーは「未だ登場せず」なのですが、この中二病性のアクの強さを逆利用することはある程度可能です。
すなわち「ドイツ趣味の権力者が、強引に脳内ドイツ的に現実を作り替えて歪みが生じてしまったのを、何とかする」物語ならいろいろ矛盾なく展開できるわけで、それが要するに『銀河英雄伝説』なのですよ。
なるほど、私が『銀英伝』に携わることになったのは、やはり運命であったか!
「グリフォン・スピットでお願いします!」
あ、ちなみに最後の最後で恐縮ですが、岡部先生からサイン本をいただきました。
「何か絵を描くけど、何がいい?」と聞かれて一瞬うろたえた瞬間、
「グリフォン・スピットでお願いします!」と夫が間髪入れず応えたのがすごかったです。
「メッサーシュミットとかでなくてよいの?」
「スピットファイアは芸術品です!から!是非!」
いやー、なんか『バガボンド』の剣豪の遭遇シーンみたいですごかった。
岡部先生、どうもありがとうございました!
ではでは、今日はこのへんで、Tschüss!
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