表現者が悪を成したとしても、作品が素晴らしかった場合、その輝きは失せない、ないと考えたい(書評家・豊崎由美)
有名な監督や演出家などによるセクハラ、パワハラの告発が止まらない。そうした事柄と共に大好きな作品の名前が出てしまうのは本当に悲しいことだけれど、表現者の悪と作品の価値は別物として考えたい。映画、演劇、文学……優れた表現を愛する書評家・豊崎由美が全4巻の傑作メガノベル『ゴールドフィンチ』を読み解きながら「悪いことを起こした人の変化を認める」ことについて思索する。
目次
たとえクソみてえな男だったとしても
映画界や演劇界におけるハラスメントや性的加害の告発を目にして、それが自分の好きな表現者に関するものだったりすると気持ちが沈んでしまいますよね。もちろん、やったことは良くない。悪い。だから反省し謝罪するのは当たり前。こうした告発によって、今後業界の悪い体質が改善されることを祈っていますし、二次加害に加担したりしないよう自らの振る舞いにも気をつけなければならないと思っています。でも、それでも、たとえその表現者が悪を成したとしても、発表された作品が素晴らしかった場合、その輝きは失せるものではないとわたしは考える者です。
海外の事例を挙げれば、ピューリッツァー賞受賞作家ジュノ・ディアスをめぐる一連のセクハラ、パワハラ事件です。植田かもめ氏の「未翻訳ブックレビュー」というサイトがこの件に関してわかりやすいまとめになっていますので、以下、植田さんの記事に沿って簡単に紹介します。
2018年、ある女性作家が、彼女が開いた文学ワークショップの場で、ディアスが彼女を追いつめてキスをしたという忌むべき出来事をツイートしました。すると、これに追随して、複数の女性作家が自分もディアスからパワハラやセクハラを受けたと声を上げたんです。一連の告発の後、ジュノ・ディアスはエージェントを通じて「自分の過去について責任を取る」という声明文を発表し、ピューリッツァー賞委員会の委員長という栄誉ある地位を退任しました。
ディアス本人が認めているのですから、セクハラもパワハラも事実なのでしょう。「なんてヤツだ」とわたしも思います。でも、それでも、彼が書いた長篇小説『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』(新潮社)が傑作であることに変わりはないんですよ。ディアスがたとえクソみてえな男だったとしても、この作品の輝きには何の曇りももたらさないんですよ。
1930年から31年間にわたってドミニカを支配し、カリブ海に浮かぶこの小さな国を恐怖の国民総密告国家へと変えたトルヒーヨ。絶大な権力を握ったこの独裁者の悪行の数々は、ノーベル賞作家バルガス=リョサも『チボの狂宴』(作品社)で描いていますが、読み物としてのおもしろさはディノス作品のほうが上をいっていると思います。
『指輪物語』(J・R・R・トールキン)のようなファンタジーのカノンから『AKIRA』(大友克洋)といった日本の漫画やアニメまで、オタク文化にどっぷり浸って育った、ドミニカにルーツを持つ超肥満体の非モテ男子オスカーを主人公にした小説で、ディノスがトルヒーヨがもたらした負の遺産とどう向き合い闘っているか、是非、読んで確かめてください。オタク的な想像力と中南米伝承の想像力を掛け合わせ、世界に遍在するありとあらゆるトルヒーヨ的なるものに激烈で痛快な「NO!」を突きつける。〈素晴らしい! 素晴らしい!〉、物語末尾に置かれた一文がふさわしい、これは多様な価値観と想像力を備えて強靱なハイブリッド文学の傑作なのです。
が、しかし。わたしが今回詳しく紹介したいのは別の作品なんです。というのも、ツイッターを中心に巻き起こっている告発の嵐に接して、わたしがつい思ってしまうのは「しかし、そして人生はつづく」ということだからです。
『ゴールドフィンチ』の語り手もまた
「風が吹けば桶屋が儲かる」式に、わたしたちは何らかの結果には、さかのぼってみれば必ず原因があるはずだと考えたがります。A→B→C→……Z。でも、Aが悪しき行為でZが悪しき結果、Aが善き行為でZが善き結果とは、必ずしもならないのが不思議ですよね。善行が最悪の結果を招いたり、悪行が素晴らしい結果を生んだりもする。そればかりか、Z(結果)がまだ出来事の途中にすぎなかったことが、後からわかったりもする。その理不尽さに、世界は、人間は、常に翻弄されつづけているとわたしは思うんです。
ドナ・タートの『ゴールドフィンチ』の語り手テオもまた原因と結果の間で、あっちに転がり、こっちの穴にはまり、さまざまな出来事や感情に振り回される役割を、作者によって担わされています。
〈『ヘラルド・トリビューン』にぼくのことは載っていなくても、オランダのあらゆる新聞にはその記事が出ていた。(略)未解決殺人事件。犯人は不明〉〈前科のあるアメリカ人〉。
クリスマスを間近に控えたアムステルダムのホテルに、1週間あまりこもりっぱなしになっている〈ぼく〉ことテオが何らかの事件に関わって、面倒に巻き込まれている様子をうかがわせる場面から、この全4巻のメガノベルは始まっています。しかし、詳細は一切語られないまま、物語は14年前の4月10日、デテオが13歳のときに起こった大きな出来事へとさかのぼっていくんです。
してもいない喫煙の罪で停学をくらい、母とふたり学校の会議に呼び出されることになったテオ。その会議が始まる前、少しでも時間があれば絵画を鑑賞する習慣がある母は、息子を連れて美術館に寄ってしまいます。愛する息子に、自分が初めて心から好きになったという、レンブラントの弟子でフェルメールの師匠であるファブリティウスが描いた黄色いフィンチの絵「ゴールドフィンチ(ごしきひわ)」を前に、かの画家を夭折させた火薬の爆発事故について語る母。しかし、テオが気にしていたのは、白髪の老人に付き添われている、古びたフルートケースをぶらさげた鮮やかな赤毛の女の子でした。彼女に話しかけたい一心のテオは、すでに通過した展示室に戻るという母を見送り、そこに留まるのですが、その直後、爆破テロが起きるんです。
九死に一生を得ながらも頭を強く打って朦朧となったテオ。必死で母を探そうとする途中で、赤毛の少女に付き添っていた、ウェルティと名乗る瀕死の老人から名画「ごしきひわ」を外に持ち出すよう頼まれ、それを実行に移してしまいます。その後何とか自力で美術館から脱出し、歩いて自宅に戻ることができたものの、母は死亡。数カ月前に、飲んだくれで賭け事好きな父親が出奔したせいで、孤児という立場になったテオは、いったん裕福な友人宅に預けられることに。
やがて、ウェルティが遺した〈ホバート&ブラックウェル〉〈緑色のベルを鳴らしてくれ〉という言葉を頼りにたどり着いた骨董店で、かの老人の共同経営者であるホービーに温かく迎え入れられ、赤毛の少女ピッパが大ケガを負ったものの助かったことを知ります。骨董家具の修理名人ホービーのもとに通い、ピッパとも仲良くなっていく中、テオは少しずつ心の平安を取り戻していくのですが、そこに父親と愛人のザンドラが現れ、彼は名画「ごしきひわ」を隠し持ったままラスベガスへ連れていかれることになり──。
いいことなど、何ひとつ起こりはしない
と、ここまでが第一巻。自分が学校に呼び出されたりしなければ、母はあの日あの時、美術館にいなかったはずだ。テオの頭からは、大好きな母親が死んだのは自分のせいだという思いが離れません。悪しき原因が生んだ、最悪の結果。しかし、テオにとっての悪しき結果は、その後どこまでもつづいていくんです。賭博師の父親とカジノで働くザンドラのもと強いられる荒んだ生活。やはりろくでもない父親に世界中連れ回されているボリスという少年と出会い、孤独ではなくなるものの、健全とはいいがたい友情を育んでいく中、飲酒や喫煙、ドラッグの味を覚えていく。いいことなど、何ひとつ起こりはしない。
その後、物語は、父親の死をきっかけにラスベガスを脱出してニューヨークに戻ったテオがホービーに保護され、ピッパと再会するシークエンスを提示することで、読者に「災い転じて福となる」式の展開を期待させます。もともとの頭の良さから早期大学プログラムを受けるための試験に合格し、自分が修理した素晴らしい骨董家具を売るのがヘタなホービーに代わって、17歳の頃から店の経営を助けるようになっていくテオの、未来の幸福を読者は祈ります。でも、そうはならないんです。
大好きな母親が死んだのは自分のせいだという自責の念と、名画を結果的には盗み持っていることになっている状況への深い不安が、彼を少年時代にその味を覚えたドラッグのもとに留め、優れた資質を持っているにもかかわらず「何者かになりたい」という自分に対する期待を封じ、抱えこんでいる大きな秘密を守るために、本当の自分を見失い、ハンサムで人当たりのいい外面だけを整える空疎な男にしていくんです。
永遠につづいていくかのように思われる悪しき連鎖の結果としてのZ、Z、Z……。あと一回こづかれたら立ってはいられないほどの苦境と精神的な圧迫にさらされるに至ったテオのもとに現れるのが、ラスベガスで別れて以来連絡をとってこなかった悪友のボリスです。彼によってもたらされた驚愕の事実によって、テオはさらなるドツボにはまっていくことになるのですが、そのことはこれから読む人のために明かしません。
とても「ありのまま」ではいられない人生の真実を描く
ただ、冒頭にも記したとおり、ここまでは悪しき原因が悪しき結果を招くと思わせてきた物語が、終盤にきて、善行が最悪の結果を招いたり、悪行が素晴らしい結果を生んだりもするという、人の営みにおける自分ではコントロール不能な不可思議な貌を露わにしていくことだけは記しておきます。そして、枕カバーにぐるぐる巻きにされて長い間隠されてきた名画「ごしきひわ」が、13年ぶりにおもてに現れた時、そもそもの原因は、テオが考えているように自分が学校に呼び出されるようなハメに陥ったからではないんじゃないのか、という疑問をあからさまにではなく、ごく控えめなトーンで提示する作者の慎重かつ巧妙な語り口に驚かされることも。
ドストエフスキーの『白痴』を愛するボリスは言います。
〈ムイシュキンは親切で、だれのことも愛し、優しくて、いつも人を許し、悪いことは一度もしなかった。だがどんな悪人も信用し、誤った決断ばかりをし、まわりのあらゆる人を傷つけた〉〈もしかすると、まちがった道が正しい道ってこともあるのではないか? まちがった道を選択しても、それでも自分が望んでいるところへ出てくるときもあるのでは? あるいは、別の言い方をすると、まちがったことばかりやっても、それでもそれが正しいとわかることもあるのでは?〉
何もかも終わった後、テオは思います。
〈ぼくたちは自分自身の心を選ぶことはできない。ぼくたちは自分たちにとって良いものや、ほかの人々にとって良いものを、自分自身に求めさせることはできない。ぼくたちは自分の人となりを選ぶことはできない〉〈なぜなら──子供時代からずっと、文化の中で異論のない常套句が、常にぼくたちの中にたたき込まれているからではないか?(中略)「ありのままの自分でいなさい」「心のおもむくままにしなさい」〉〈だがここにぜひともだれかに説明してもらいたいことがある。もし人がたまたま信用できないような心を持っていればどうすればいいのか? もしその心がそれ自体の測りがたい理由で、故意に、しかも言葉で表せないほどの耀きに包まれて人を導き、健康、家庭生活、市民としての責任や、強い社会的なつながりや、もろもろのつまらないありきたりの美徳から顔をそむけさせ、その代わりに破滅の美しい炎、焼身、災難へとまっすぐに向かわせたらどうすればいいのか?〉
ボリスとテオの問いかけに正しい答など存在しないことを、しかし、実はふたりが語っている予測も制御も不能な何かこそが〈世界の中における偉大さであり、世界の偉大さではなく、世界が理解しない偉大さである。自分とはまったく異なる者を初めて見る偉大さであり、その存在の中に、人は大きく大きく開花するのだ〉ということを、作者のドナ・タートはこの長い長い物語で語っているんです。
世界の中に無数に存在するパターンの中の一部にすぎない個々の人間が、大勢の他者との関わりの中で、こづき回され、右往左往し、A……ZZZとつづく予測不能な因果に振り回され、とても「ありのまま」ではいられない人生の真実を描く文学作品であり、『オリヴァー・ツイスト』や『デイヴィッド・コパフィールド』といったディケンズの孤児小説を21世紀版にバージョンアップしたピカレスク・ロマンであり、テオに持ち出された名画をめぐるサスペンス小説であり、コン・ゲーム小説でもある、たくさんの読みどころを備えたメガノベル。これからこの長い長い物語世界の中に入っていく未読の方が羨ましい傑作です。
悪いことを起こした人の変化を認めなければならない
わたしたちは生きている限り、途上に在ります。かつて起きたこと、今起こっていることの本当の結果は、生きている間においては生まれ得ないのではないか。悪い出来事もいつかこの途上で仮定としての良い結果を生むのかもしれない。良い結果だと思って安心していたら、再び悪い方向に向かってしまうかもしれない。だから、わたしたちは常に自分の内面を見つめつづけていなければならないし、起きた出来事について考えつづけなければならない。悪いことを起こした人の変化を認めなければならない、悪いことをされた人に対して思いやりを持ちつづけなければならない。そんなことを、わたしはこの小説を読んで学んだような気がしています。皆さんも是非ご一読ください。
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