3月29日、新型コロナウイルス感染による肺炎で志村けんが死去した。志村けんといえば、誰もが知る「アイーン」。代表的なギャグだと思われているあの動きには、彼の歴史が詰まっている。この記事では、お笑い評論家のラリー遠田が、「アイーン」の真実と歴史を解説する。
※ 記事初出時、一部誤りがありました。お詫びして訂正いたします。(最終更新:4月7日(火)12:45)
「アイーン」の真実と歴史
「アイーン」は志村けんの代表的なギャグである。そう思っている人は多いのではないか。だが、志村本人の見解によると、この文章にはふたつの間違いがある。ひとつは、「アイーン」はギャグではないということ。そしてもうひとつは、あの動きにはもともと名前はなかったということだ。「アイーン」とはなんだったのか。その歴史を簡単に紐解いてみたい。
ザ・ドリフターズの人気番組『8時だョ!全員集合』では、リーダーのいかりや長介が母親、教師、教官などの権威者・権力者を演じて、ほかのメンバーがそれに従う役柄を演じるコントが定番だった。ボケとツッコミという役割分担で言うと、いかりやがツッコミ、ほかのメンバーがボケを担当していた。
いかりやが一方的に命令をしたり指示を出したりするのに対して、ほかのメンバーはあの手この手で逆らい、はしゃぎ回って怒られてしまう。
途中からドリフに加わった志村けんは、ほどなくして『全員集合』のコントの中心的存在になった。ボケ役を一手に引き受ける存在になり、毎回いかりやからの激しいツッコミを浴びていた。
コントの中で志村はどんなに頭ごなしに怒られても、懲りずにいたずらや失敗を繰り返していた。この番組を観ていた子どもたちはそんな彼に感情移入して「いいぞ、もっとやれ」と拍手喝采を送った。
志村がいかりやに怒られているときのリアクションのひとつとして、片ひじとあごを前方に突き出して寄り目にする「あのポーズ」があった。「怒っちゃやーよ」という言葉が添えられることもあった。これは、憤るいかりやをなだめるふりをして逆上させる意味合いがあった。
それから数十年後、『全員集合』もとっくに終わっていた90年代中盤に、 ナインティナインの岡村隆史が全国ネットのテレビであのポーズで「アイーン」と言った。そして、事あるごとにその動きを真似して見せた。
2020年4月4日放送の『特盛!よしもと 今田・八光のおしゃべりジャングル』(読売テレビ)でFUJIWARAのふたりが語っていたところによると、最初にこの動きに「アイーン」という擬音をつけたのは、FUJIWARAの原西孝幸とバッファロー吾郎のバッファロー吾郎Aのどちらかだという。彼らがふざけてそれをやっているときに適当に言っていた擬音のうちのひとつが「アイーン」だった。岡村は彼らがふざけてかけ合いをしているのを見て、自分でも真似し始めた。岡村は自分の芸風が志村の完全なコピーであることを隠そうともしなかった。その動きは「志村けんの『アイーン』というギャグ」としてどんどん広まっていった。
志村けんは著書『変なおじさん』(日経BP社)の中で、「アイーン」が広まったのは「ナインティナインの岡村やKinKiの剛(※)なんかが、いろんな番組で僕の真似をするようになってからだと思う」(※ KinKi Kids 堂本剛)と書いている。また、自分の感覚では「アイーン」はギャグではないとも述べている。志村の定義では「ギャグ」とは伏線があって次はこうなる、というような一連の流れ全体のことを意味する。ひとつの動きやフレーズだけを切り取ったものをギャグとは呼べないというのだ。
岡村がメディアで「アイーン」を連発しているという噂は本人にも届き、志村も「アイーン」という名称を受け入れた。もともとはコントの流れの中にあったひとつのポーズに過ぎなかったのだが、あたかも独立したひとつのギャグであるかのように認識され、本人も時にはそれだけを単独でやるようになった。
2002年には「バカ殿様とミニモニ姫。」名義でCDシングル『アイ〜ン体操』がリリースされた。当時、一世を風靡していたアイドルグループのミニモニ。とコラボして、志村自身が惜しげもなく「アイーン」を連発した。こうして「アイーン」は志村のギャグとして定着した。