江戸BL『百と卍』から考える結婚の自由。彼らが描いた夢のために今を生きる私たちができること
元陰間(男娼)の百樹(以下、百)と元火消しの卍の甘い恋が描かれているボーイズラブ作品『百と卍』(紗久楽さわ/祥伝社)。この作品の舞台である江戸時代は、男色文化が一般社会の間にも広がった時代だったため、男性同士の恋は当たり前だった。しかし婚姻は、“家”と“家”を結び、守る意味合いを強く持っており、結婚は夢のまた夢──。
男ふたりそうやって
『百と卍』五巻 一四一頁 一コマ目より
“所帯”を持つンです
主人公のひとり・百(もも)が放ったこのセリフを読んだ今、「愛し合うすべてのカップルが、パートナーとどんな関係で、どう生きるかを自由に選択できる時代にしていかなければ」と改めて感じている。
※本稿は、『百と卍』シリーズのほか、『病める時も、健やかなる時も、』『いとおしき日々』『blanc』の内容も詳述しています。未読の方はご注意ください。
男色を「文化」と「日常」の側面から描くことで浮かび上がらせた「恋愛の型」
江戸時代は、男色文化が一般社会の間にも広がった時代である。しかし彼らが生きた文政期は、衰退のほぼ末期。恋に溺れ過ぎて君主に背いたり、痴情のもつれで血なまぐさい結末を迎えたりする男色家たちが増えたことから各地で規制が入るようになり、天保期には百がかつて囲われていた陰間茶屋も禁止された。とはいえ、百が陰間だったことは物語が進む中で数年前のこととして描かれているし、相撲を見て盛り上がったふたりが、焼けるのをじっくり待つ間にむつみ合える鰻屋の座敷にかけ込んだ際、「男色が使うと布団が汚れる」と店の従業員がぼやいていたことからも、男色文化がまだまだ身近だったことがうかがえる。
ただ同時に、「寺の坊主が稚児を連れてきたわけではない男客ふたり」を珍しがる従業員の様子も描かれていた。ここに、男色の「文化」と「日常」の間に大きな距離があったことが読み取れる。
江戸時代以前の男色は僧侶や武士の間の嗜み的側面が強く、江戸時代以降の一般社会への広まりは陰間「遊び」を指すことが多かった。そのため同性愛者をどこかファンタジーの登場人物のように思っていた人もいたのではないだろうか。その象徴たる存在が、卍の火消し時代の元同僚で“心友”である綱だ。
かつて卍は叔父の祝に、恋心と劣情を抱いていた。叶わぬ恋とはわかりつつも、気持ちはそう簡単に抑えられない。卍は眠っている祝に、こっそり精を吐いてしまう。そして自分の心が悟られぬよう、火消しを辞めた。その現場をたまたま目撃したのが綱だ。卍の行動の理由が理解できなかった彼は、長い間その理由を考えつづけた。そして偶然再会した卍に対して綱は、なぜあんな「嫌がらせ」をしたのかと問いただした。
この問いから、彼の頭の中には「身近に男に恋をする男がいる」という認識がなかったことがわかる。しかし卍が長年避けていた実家に、百との新たな歩みと家との決別を宣言しに来たのを見届けた綱は、男色が僧侶や侍といった限定された人たちのものだと、自分とはかけ離れた未知の存在だと恐れていたと打ち明けている。
この綱に、かつての自分が重なった。BL作品を手に取るようになってすぐのころ。男性の友人がふたりで仲よく遊んでいるのを見て、「どっちが攻め? 受け?」とその場のノリで笑いながら発言してしまったのだ。私が触れている、マンガ、小説、ドラマなどのBL作品は、日常とはかけ離れたファンタジーだ。ただそれは、現実に同性愛者がいないという意味でのファンタジーではない。そこをはき違え、同性愛者の存在自体をエンタメとして消費していたのだ。「愛し合うすべてのカップルが、パートナーとどんな関係で、どう生きるかを自由に選択できる時代にならなければ」なんてどの口が言うかと思うくらい、かつての自分を恥じている。
このように自分とは異なる存在への恐怖心を嘲笑でごまかす人がいる社会では、マイノリティの人たちは本当の自分を打ち明けられなくて当然だと思う。それは、たとえ身近な人であってもだ。
また卍は自身のセクシュアリティと向き合うなかで、男色の通例にも悩まされていた。彼自身は愛する人を抱きたいという欲求を抱いている。しかし男色の世界においては、年上の念者が年下の若衆を寵愛することが当たり前。年上の叔父を好きになった彼にとってこの通例は、万が一想いが通じ合ったとしても大きなジレンマを抱えたままの苦しい恋愛となることを意味していた。
この男色の世界にある通例は、百の心もえぐる。歌舞伎と密接な関係があった、江戸時代の一般社会における男色。職業的男色の陰間も元は、女形役者としてまだ舞台に立っていない美少年を指している。そのため小柄で見目麗しい男子が人気を博し、春画にも描かれた。百はというと、陰間時代から非常にガタイがいい。卍よりも背は高く、彼をひょいと抱きかかえられる力も持っている。だからこそ百は、自分と卍の恋が男色の型にはまっていないことを自覚していた。そしていざ自分たちの関係が受け止められない現実を目の当たりにしたとき、自分がもっと絵に描いたような美少年だったらと胸を痛めるのだ。
芸能ニュースなどで、思いがけないカップルを「美女と野獣」にたとえているのを耳にしたことはないだろうか。この言葉もそうだが、世の中にはビックリするほど多くの「恋愛の型」が存在しているように思う。本来、誰がどんな人とどんな恋をしようと勝手だ。「男女でなければ」はもちろん「年上が抱く側でなければ」「抱かれる側は美しくなければ」という決まりはない。しかしそれが「文化」の立ち位置になってしまうと、作法とか暗黙の了解とか、そういった決まりごとらしきものが出てきてしまう。
また男色家に恋をした女性として描かれた卍の母・なゝも、この「文化」に苦しめられたひとりだろう。彼女には恋をした相手から蔑まれ、傷ついた過去がある。当時、男色家の間では、「女色はけがらわしい」といった価値観を持つ人もいたという。心に決めた人がいて、向けられた恋心に応えられないのなら、まっすぐに振ればいいだけだ。なゝが傷つけられていい理由はどこにもないし、恋愛に良いも悪いもない。このように本作は、百と卍という「男に恋をする男ふたり」を描きながらも、自分たちの恋こそが至高だと思い込み他人を傷つける男色家も描いている。
百と卍、そしてなゝ。この3人に息苦しい思いをさせていた、男色「文化」に起因する「恋愛の型」。これは現代においても残っており、多様なセクシュアリティや生き方に気づきづらい社会構造を生み出す要因となっている気がしてならない。
「ふうふ」になる……BLではまだ夢
本当の自分でいることを周囲に隠して生きることに苦しさを覚えていた、百と卍。そんなふたりは5巻で、関係を認めないどころか完全に否定する(卍の)父親・祭を相手に、心を痛めながらも覚悟を持って「所帯を持つ」という夢を語った。
BLでは、恋愛の先にさまざまな「生涯を共にする選択」が描かれてきた。ただし「婚姻(結婚)」という選択で描かれるのは、男性も妊娠できる世界観(オメガバース)や同性婚の法制化が整った時代などを舞台にした作品がほとんどだ。現代を舞台にする作品においてBLで愛し合うふたりが所帯を持つには、「婚姻」ではなく「パートナーシップ制度」や「養子縁組」、もしくはずっと一緒にいようといった「決意表明」として描かれることが多い。
たとえば、『いとおしき日々』(sono.N/メディアソフト)のカップルは、大けがをした際に面会が許されなかったのを機に家族になる必要性を強く感じ、養子縁組で法律上の親子となっている。ただその際に、親子になりたかったわけではないと語っていた。
『blanc』(中村明日美子/茜新社)のカップルは、自治体のパートナーシップ制度の活用を検討する際、親子になっていると動きにくいかもという考えから法的効力のある養子縁組を先延ばしにした結果、高校時代から築き上げてきたふたりの関係性が壊れるきっかけとなっていた。
また『病める時も、健やかなる時も、』(野良おばけ/メディアソフト)では、「家族になりたい」という意思表示のために、死亡保険の受取人証明書が登場している。住んでいる地域にパートナーシップ制度がなかったためだ。
何度「同性カップルにも婚姻の制度が整っていれば」と思っただろうか。
男色が身近ではあったものの同性婚は認められていない江戸時代を舞台にした『百と卍』も、例外ではない。百と卍は5巻での決意表明の前に、「未来永劫 来世まで 心を結ぼうか」と「義兄弟の契り」を交わしている。このときも、二階屋に引っ越し店を構え、財布は百が管理するというビジョンを語り合っていた。しかしこの契りにも実家での決意表明にも、法的効力、なんてものはない。
同性カップルには、百と卍が生きた江戸時代から今に至るまで、「ふうふ」として所帯を持ちたいと思ったときの選択肢が「親子」か「法的効力のないふうふ」しか用意されていない。特に後者は婚姻と同等の関係を“承認”するだけのもので、自治体によってその内容も異なる。しかも住む場所で左右されるだけでなく、相続や親権などの権利も遺言書がなければ譲渡されない。
同じ籍に入りたいのなら「養子縁組」、生涯を共にしたいだけなら「パートナーシップ制度」を活用すればいいのではないかという考えを目にしたこともあるが、これは「婚姻」という選択肢も加わって初めて成り立つと思う。
百と卍が見た「夢」を、少しでも早く「現(うつつ)」に
「結婚の自由をすべての人に」をスローガンに同性婚の法制化を目指し活動している公益社団法人Marriage For All Japan(以下、MFAJ)は、国を相手に「同性カップルが結婚できないことが憲法違反」であることを問う裁判を起こした。今もなお、全国5つの裁判所で訴訟がつづいている。
札幌地裁では、同性間の婚姻を認めない今の状況が憲法14条1項の平等原則に違反して違憲であると判決が下った。しかし大阪地裁では、違憲ではないという判決となっている。この裁判における国の主張は、MFAJの代理人を務める寺原真希子弁護士の「原告ら代理人意見陳述要旨」から読み取れる。
そもそも国は、婚姻の目的が「自然生殖の保護」にあるため、同性婚は認められないと述べている。しかしMFAJ側から「結婚していても子供を望まない、子供が欲しくてもできないふうふもいる」と指摘が入ると、「実際に自然生殖が可能である必要はないが、“生物学的な自然生殖可能性”を基礎として、婚姻できる者の範囲が確定されている」と主張を修正した。陳述要旨にもあるが「なぜ同性での結婚が認められないのか」という質問への返答になっていない。
また、もし「男女なら自然生殖ができる」ことに国が期待しているとしたら、それはそれで人権侵害も甚だしい回答であるとも感じる。子供を育てようとする小さな社会を守ろうと婚姻制度があることについては、ありがたいと思う。ただしそこを第一の目的とされると「子供を生む(可能性のある)カップルでなければ、所帯を持つ資格がない」と言われているも同義ではないだろうか。婚姻は「子供生みます(生めます)」の宣言ではない。
話は『百と卍』に戻る。百は卍の父親の目の前で、大好きな男と「所帯を持つ」と宣言した。かつて交わした「義兄弟の契り」にひとつの結論がついたといってもいいだろう。この言葉を聞いた卍の父は、まるで夢のような話だと頭を抱える。そんな父に卍は、「いつか必ず叶える俺と此奴の“夢”の話」だと力強く返した。
“夢”は“現”に
『百と卍』五巻 二〇八・二〇九頁より
“現”は いつももがいた“夢”のさき
このセリフほど、百と卍のこれまでとこれからを象徴する言葉はないと感じた。と同時に、彼らの自由な恋愛や結婚を阻む「自分たちの力だけではどうしようもできない偏見や社会制度」という壁が少しでも薄く、低くなること、彼らがもがいた先に描いた夢が少しでも早く現実になることを心から願い、小さな声を上げつづけていこうと思う。
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