非現実世界で繰り広げられる、とてつもなくリアルな「青春群像劇」
なんらかの理由で異次元世界へと飛ばされた少年少女たちのサバイバル生活を描く『Sonny Boy』は、公式サイトによると「SF青春群像劇」だという。確かに、謎が謎を呼ぶ展開や非現実世界にSF要素は感じられる。しかしこの作品におけるSF要素はあくまで物語のエッセンスで、丁寧に描きたかったのは「青春群像劇」の部分ではないか思うのだ。
その存在をあまり認めるべきではないのだろうが、事実として学校には「スクールカースト」と呼ばれる序列がある。本作においてのそれは、「異次元世界で芽生えた超能力」によって表現されている。
たとえば、元の世界ではみんなの憧れの的だった野球部のエースに発現したのは、泥水などのどんな水でもおいしく飲める「水がおいしい」という超能力。彼の能力はサバイバル環境下ではとても貴重な能力に思えるが、おいしく“できる”ではなく“飲める”であることからも自分自身にしか発動しないと考えられる。さまざまな世界へ行ける、望んだものを猫が持ってきてくれるといった、まわりの役に立つ派手な能力を持ったキャラクターがいる中で、エースの存在は薄くなってしまっているようだった。
ほかにも重力をコントロールできる超能力が発現した朝風は、校舎のガラスを割る、生徒会への反抗心を見せるといった攻撃的側面を見せていたものの、サバイバルが始まって1カ月たったころには世界の探索のために力を活用し、周囲から羨望の眼差しを向けられるようになっている。つまり超能力の発現が、元の世界とは異なる序列を生み出しているというわけだ。
『Sonny Boy』で描かれるスクールカーストを通して改めて気づかされるのは、環境が変われば自分の肩書やステータスの価値も変化するということ。人は自分の価値を見いだすために、周囲から評価されるステータスを欲し、それに振り回されているということだ。
またこの作品の鍵として、ルールの存在もあげられる。校則を破った者には罰が下される、対価なしに手に入れたものが燃えるといった現象が、各自の能力とは関係なく発動されるのだ。
ルールは社会の秩序を保つために必要だ。ただそれが特定の誰かのためのものであるならば、議論の余地は大いにある。しかしその議論を投げかけること自体が、秩序を乱すものとして捉えられてしまいがちだ。作中で描かれるのは、学校、学年という小さな社会。自らそこからあぶれてしまう行為をしてしまうことは、生きづらさと直結しているように見えてしまうものだ。
スクールカーストなんてものが存在する社会においては「なぜ」と思ったとしても、周囲の反応や価値観に従うほうが生きやすい。この感覚に蝕まれていくうちに、気づけば自分を見失ってしまい、「何者かにならなければ」という焦り、不安へと発展していく。もちろんその不安の解消法も、簡単には見つからない。この漠然とした不安の描き方に、「青春群像劇」を猛烈に感じたのだ。
そんな不安を抱く思春期の少年少女が大多数のなか、はやとというキャラクターに安心感を覚えた。彼に発現したのは、指先がライトになる超能力。彼は主人公の長良に「それだけ?」と言われてしまった自分の能力を、「すげえだろ」とブレることなく誇りに思っている。一方ではやとは、周囲の人の超能力にランクをつけてノートにまとめるといった、自分のものさしで人を評価する側面も見せている。
他人がなんと言おうと、自分がいいと思ったらそれでいい。自分の価値は自分で決める。言うのは簡単なこの感覚が、周囲の価値観に振り回されることなく、自分から自分への信頼で成り立っているのは難しいことなのか。はやとと周囲の人物との対比や、はやと自身が無意識に抱く矛盾を通して伝わってくるだろう。
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