2025年9月に公開された実写映画『ヒックとドラゴン』は、世界興行収入6億ドル以上を記録。続編の撮影もスタートするなど凄まじい人気を博し、現在は各配信サイトで視聴できるようになった。
世界的ヒットの要因のひとつは、マッチョなバイキング社会に馴染めないひ弱な少年ヒックが“マチズモからの脱却”を果たすストーリーにあると考える。
事実、うつ病経験者である私は実写版『ヒックとドラゴン』を観て救われるものがあった。
今、社会に蔓延するマチズモの風潮や、「マッチョでなければならない」と思い込んでいる人は、本作を観てはいかがだろうか。もしかしたら、苦しみから抜け出す糸口が見えるかもしれない。
自分にかけた「マッチョじゃないといけない」という呪い
「マチズモからの脱却」は現代社会が抱える大きな問題のひとつだ。
たとえば、私は俗に言う“就活うつ”を経験し、新卒で入社した会社を退職してしまった。そのとき強く感じたのは、社会が<弱いという烙印を押された人間>にどこまでも冷たく当たるということだった。そして、日本社会もまた、強さを過剰に求めるバイキング社会に似ていることを悟った。
ここで言うマッチョとは、単純に筋骨隆々な体形を指す言葉ではない。「保守的価値観や家父長制的な思想」などをも内包する概念だ。
私もうつ病が酷かったとき、「マッチョな人間にならないと社会に居場所がない」と自分に“呪い”をかけていた。しかし、時間こそかかったが、自分の弱さを受け入れることで、マッチョという呪いから解放された。そして、マッチョでなくてもよいと思うことで他人への思いやりの重要性や、今までの人生を支えてきてくれた人々への感謝を再認識することもできたのだ。
それから数年後。劇場で実写版『ヒックとドラゴン』を観たとき、これまで感じていたマッチョという呪いと、そこからの解放についての自分の考えが、15年前のアニメーション版『ヒックとドラゴン』の鑑賞体験にあると思い出すことができたのだった。
「戦いこそすべて」マッチョなバイキング社会
『ヒックとドラゴン』ではマッチョなバイキング社会と、主人公たちがマチズモの象徴である父親とどう向き合うのかを通して、マッチョではない生き方を描いている。

ヒックの暮らすバーク島は腕力がものを言い、ドラゴンを何頭殺せたのかで社会的ヒエラルキーが決まるマッチョな社会だ。柔らかく表現すれば体育会系だが、実際は過激なタカ派の集団で、体力に自信がなく貧弱だとされるヒックに居場所はない。
さらにバーク島は「傷は名誉の勲章であり、どんなに心身が傷ついても、それは名誉なことなのだから受け入れろ」という風潮に満ちている。そのため、バイキングたちはどんなに心身ともに傷ついていても涙を流すことなど、弱さを見せる行為は許されないのだ。
弱さを見せられない彼らは本当の意味で「強い戦士」と言えない。そして、マッチョな人物として認められなければならないという呪いの中でもがき続けていては、いずれ心がすり潰されてしまうのではないか。
筆者はバイキング社会を観ていて、そのような疑問が尽きなかった。
たとえばヒックの父親は、バーク島で名実ともに最強のバイキングと呼ばれ、彼らの頭領を務めるストイックという男である。ヒックは父親に認められようともがく。ストイックは、息子に自分と同じマッチョなバイキングになるように求めるなど、保守的かつ家父長制の権化として描かれている。どうすれば父親に認められるのか、マッチョなバイキングになれるのか、ヒックは悩み苦しむ。

しかしドラゴンのトゥースと出会い、ともに空を飛んだことで「父親に認められる以外の生き方」を知った。これが、『ヒックとドラゴン』が訴える「マチズモからの脱却」につながっていく。
いじめっ子気質のスノットも、父親との関係に悩んでいる。
アニメーション版ではスノットの父親・スパイトは背景に映るひとりでしかなかったが、実写版では頭領ストイックの右腕を務め、彼同様マッチョなバイキングとされている。スノットも父親に認められようと、言葉の節々に「男らしい」という単語を挟み、父親との同一化を図る。にもかかわらず、スパイトは息子を冷たくあしらうのだ。

思春期の、それもマッチョな社会で生きる少年にとって「父親に認められること」が大きな意味を持っていることを想像するのは容易だ。マッチョという呪いに縛られていた彼も、ヒックの手助けでドラゴンの背に乗って空を飛ぶ。そうすると、自分が「世界のすべて」だと思っていたものが、実は大きな海に浮かぶ小さな島の、その中のさらに小さな村の価値観でしかないことを五感すべてで悟る。
島の外には広大な世界が広がっており、その多様性に気づいた少年たちは、“小さな島の小さな村の男たち”である父親に認められる以外の生き方を知る。それにより、自己のアイデンティティの確立の方法を自分で考え始めるのだ。
「弱さを見せること」「誰かに頼ること」そして本当の強さ
前述の通り、ヒックとスノットはドラゴンに乗って空を飛ぶことで、実は「世界のすべて」だと思い込んでいた父親が、小さな村で暮らす一人の男に過ぎないと知る。子どもは親が教えてくる価値観を、世界の真理だと考えてしまう。

しかし、実際に肉眼で大海原の広さを知った子どもたちは、この世界には多様な価値観があることを悟り、その中で自己のアイデンティティの確立の方法も知っていく。
この“ドラゴンライド”という行為は、ドラゴンに対して心を開き、自分は空を飛べないと認めることから始まる。そして、ドラゴンをコントロールするのではなく、すべてを委ねる。つまり、身体的な“弱さ”を認める、“支配権”を放棄するというバイキングが良いものとしていないことを、良いものとしているのが特徴だ。
ストーリーの終盤では、バイキングたちはボスドラゴンのレッド・デスによって壊滅寸前になってしまう。そこにドラゴンに乗ったヒックたちが颯爽と現れ、バイキングが手も足も出なかった強敵を翻弄し、追い詰めていくのである。

これはドラゴンライドによってマッチョであることにこだわらなくなったキャラクターたちの方が、マッチョにこだわっているキャラクターよりも強いということをドラゴンとのコンビネーションを通して表象した場面ではないだろうか。
現代の日本社会では生涯で約15人に1人がうつ病を経験するといわれている。日本以外でもうつ病は増加傾向にある。
自分には関係ないと思っている方もいつか患うかもしれない身近なものだし、身の回りにうつ病を抱えながら生きている方もいるかもしれない。うつ病の背景には、男らしさの強制という呪いが社会に蔓延していること、知らず知らずのうちに“弱さ”を隠そうと無理をしていることが挙げられるのではないだろうか。
それに対して、『ヒックとドラゴン』は弱さを認め、他者に身を委ね、誰かに頼ることこそ“本当の強さ”ではないかと訴え続けている。“強くあれ”という呪いから解放されることで得られる強さを丁寧に描いたことが、本作を世界的なヒット作にした要因だと実写版を観て、私は確信した。
「誰かに頼る」それだけで見える世界がある
弱さを隠しながらマッチョなふりをして生き続けるのはつらい。しかし、“弱さ”をオープンにすることだけが解決策ではない。
それでも、選択肢として「誰かに頼る」というものが浮かび上がるようになるだけで、見える世界が変わってくるのは確かだ。
2010年に最初に劇場公開されたアニメーション版『ヒックとドラゴン』から2025年の実写版『ヒックとドラゴン』まで、15年間変わらず、本作品が訴え続けてきた“マチズモからの脱却”というメッセージ。そのメッセージは、現代の日本社会にこそ深く刺さり、観客の心を動かすのではないだろうか。
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