アイドルの恋愛報道を「プロ意識が低い」と断じる前に考えたいこと。和田彩花が疑問視する“評価基準”とは
「あのときの私と、あなたを救ってあげたい」──そう語るのは、歌手の和田彩花。15歳から24歳まで、女性アイドルグループのメンバーとして活動していた。
本連載では、和田彩花が毎月異なるテーマでエッセイを執筆。自身がアイドルとして活動するなかで、日常生活で気になった些細なことから、大きな違和感を覚えたことまで、“アイドル”ならではの問題意識をあぶり出す。
今回のテーマは「仕事」。グループ卒業後も“アイドル”として活動してきた和田が、今年の秋に肩書を変更した。その心中を赤裸々に語る。
アイドルグループ時代、アイデンティティはステージにあった
「アイドル」とは結局なんなのであろうか?
現役時代にアイドル活動の中で最も大切にしていたのは、ライブで歌って踊って表現すること。
実際には、リハーサル、家での自主練、イベント、取材、撮影、握手会、SNSの更新など、付随する仕事はいろいろあったが、私のアイデンティティはステージにあった。
上手に踊って歌うのとは違った、曲の世界をいかに自分の表現として魅せるかを一番大事にしていた。

アイドルにはさまざまな業務があるので、人によって仕事におけるアイデンティティは異なるだろう。
私はステージ上で表現することを一番大事にしていたため、アイドルとしてどうありたいとか、どう思われたいとか、あまり考えたことがなかったかも。
握手会は付随する業務くらいに考えていて、「ありがとう」を伝えられれば、それ以上もそれ以下も必要ないのではないかと考えていた。
リーダーを経験して見つけた、本当の自分
しかし、これらは単純にスケジュールに組み込まれているタスクとしての業務である。
自分そのものを商品とするアイドルのプロフェッショナルは、希望や夢といった明るい感情を届けるというような感情労働も担う。
アイドルだった私の経験としても、メンバーそれぞれのキャラクターや立ち居振る舞いを含めたすべてをファンに愛してもらっていたように思う。
もちろん人間だし、そもそも10代から20代にかけての若い世代のメンバーに理想的な立ち居振る舞いを求めるのは少し酷だと思うが、自分自身とパブリックイメージの中で、または自分が思い描く理想の中で、アイドルである私を発見していく。

現役時代、私はリーダーという役割を担っていた。
グループ活動において悔しい出来事があったとき、私は自分の悔しさを表明することと同じくらい、グループの士気が上がる言葉をいつも探した。私の言葉の発し方で、ファンやメンバーを安心させたり、悲しませたりするという感覚は常に持っていた。
そうしているうちに、私という人間が本当に思っていることを深く理解する時間が訪れた。私自身は数字には興味ないこと、けれど大きな会場でライブをやりたいという後輩の願いを叶えたいと思うのが私であるとわかった。
私はリーダーという役割、またはどうあったらファンやメンバーが喜んでくれるかという理想を掲げることで、私自身を成長させることができた。
異性愛規範に準じた、純粋で清楚な“あるべき女性像”
しかし、これはアイドルにおけるイメージや理想が私自身にいい影響を与えた例であり、どう考えても論理が飛躍しすぎるのは、アイドルの“恋愛”に関してのイメージの問題だ。
異性愛主義的でロマンチックなラブが絶対的なものとして存在してしまいがちな世の中では、アイドルのイメージ・理想の中に、異性愛規範に準じた、純粋で清楚な“あるべき女性像”は簡単に作られてしまう。
時には疑似恋愛の対象として見られることもあるほど、強固な価値観だ。
恋愛報道なしで卒業すればプロ意識が高いと言われるし、報道や流出が露出したらプロ意識が低いと言われるのがアイドルだ。
このときに言われる「プロ」とは、感情労働における、特に異性愛規範に寄り添うかたちでの責任感を示しているのだろう。

現役時代の私は、「この世の男たちは全員滅亡しろ」と思っているほど、異性という存在が受け入れられなかったし、信頼できなかった。
異性への絶望と嫌悪でいっぱいだった私は、恋愛なんかしてたまるかというような意気込みだった。
そもそも異性愛にすら懐疑的だったので、少し特殊ではあるが、そんな私からすると恋愛報道なしでプロとか評価される場所に立っていなかったし、どうでもいいと思っていた。
ただし、私の状況は少し特殊だし、これがアイドルにおける正しさとは思わない。私が異性愛規範や恋愛の話題であふれたこの世の中を理解できないのと同じように、私のような人間の感覚を理解できない人もいる。
異性愛を基本設定にしたようなこの世の中では、ロマンチックな恋愛を夢見る人がいて当然だと思う。
私が興味ないと思う気持ちと同じように、興味ある人の気持ちも尊重されなければいけない。そういう人の趣向とか、趣味とか、人間の欲望に対して、そもそもどうこう言っても仕方ないと思うのだ。
夢を与えるのが仕事だというときの「夢」って、ファン側の一方的すぎる思いのような気がする。夢は自分の中で見るものであってほしいし、それを他人に背負わせるのってどうなのだろう。
アイドルとして見る夢とはなんであるかを、自分軸で考える必要を感じる。
令和で、そんな評価基準しか気にしてないのだとしたら、これからの世の中を渡り歩いていけるはずがない気がしてしまう。
アイドルはさまざまなジャンルの仕事をこなして、メンバーそれぞれ異なった得意なこと、大切にしていることを応援してもらえるのはとてもいい。
なのに、恋愛に関する報道が出た瞬間に、それらがすべて忘れ去られて、感情労働における異性愛規範に準じた責任感だけを問われるのだ。それはいくらなんでも偏りすぎてないだろうか?
真っ当な評価がなされていないことを、私は疑問視する。
恋愛にまつわることだけではない、握手会で言われるひと言、SNSにつぶやかれたひと言にも、そういった“あってほしいアイドル像”が潜んでいる。
だから、自分が何者で、どんな人間になりたくて、どんなアーティストになりたいのかを大切にしてほしいし、それを自分で決められることがアイドルの姿であってほしい。
もちろん変わらない姿を見せ続けるアイドルもいるけど、人間としての成長は誰にでも起こっているし、必要なものである。
自分で評価して、選択して、アイデンティティを持つことが、アイドルとして必要なことであると願う。
肩書はアイドルから「詩と言葉のアーティスト」に
人生の半分くらいをアイドルとして生きてきた私は、最近まで自分が何者であるかがわからなかった。
とりあえずは第5回の記事で書いたように、アーティストではなく「アイドル」と名乗り続けることで、アイドルの幅を広げていきたいと活動してきた。
アイドルの仕事が多岐にわたるのと同じように、求められることはわりとなんでも挑戦した。
アイドルのほかに使用されていた肩書は、タレント、歌手、アーティスト、女優、作詞家、オルタナティブアイドルなど。「アイドル」と名乗っていても、実際の活動内容を示してくれる媒体さんも多く、いろんな肩書で呼んでもらった。

しかし、去年ぐらいから、自分という存在のわかりにくさ、伝わりにくさをどうにかしたいと思っていた。
実際の活動や立ち居振る舞いと、世間に「アイドル」と名乗るときに生まれるイメージの乖離をどうしても避けられなかったし、このわかりにくさゆえ、さまざまな肩書を追加しなければいけないのだろうということもわかった。
現役アイドル時代はステージにアイデンティティがあったとはいえ、それでも基本的なファンに対する、またはメンバーとスタッフさんの間を取り持つための感情労働を引き受けていたせいか、誰にも悪い気をさせない立ち居振る舞いを変わらず引き受け続けた。そして、疲れ果てた。
いつも私のやるべきことの範囲を超えてまで仕事をした。本来は自分の役割ではないことまでもうまくいくことを願ったし、うまくいかなければ落ち込んだ、そして疲れ果てた。
さまざまな仕事に挑戦できるのはいいことだと思っていたけれど、私はいつからか線引きができなくなって、必要以上の業務や感情の負担を抱えたし、そうしていないと逆に自分でいられなくなっていた。
なので、肩書を見直す必要があると思った。実際、アイデンティティはメディアの中にいる自分ではなく、やはりバンドや制作物の中にこそあった。エンタメをやりたいわけではないのも、もうわかりきっていたことだった。
自分で肩書、イメージ、仕事を見つめ直してわかったのは、私はアーティストであるということだった。詩を書き、自分の言葉を文章、話の中で伝えていくのが私の役目であり、やりたいことだった。

この秋、こっそり肩書を変えた。「詩と言葉のアーティスト」に。
私の言葉が求められる限り、発したり、残したりしながら、詩と音楽で制作を続けていきたい。人としてあるべき姿で、それ以上もそれ以下もなくありたい。私にできないことはできないと言えるようになりたい。
これが私の解釈した、そしてここまで引き受けた「アイドル」である。これからは、「詩と言葉のアーティスト」としての私の人生を豊かにしていく。




