母と息子の“愛憎関係”を描き出す物語。少年がある事件を起こすまでと、観客に突きつける現実「珍しく心底疲弊した」(石野理子『少年は残酷な弓を射る』レビュー)

2023年よりソロ活動を開始し、同年8月にバンド・Aooo(アウー)を結成した石野理子。連載「石野理子のシネマ基地」では、かねてより大の映画好きを明かしている彼女が、新旧問わずあらゆる作品について綴る。
第6回のテーマに石野が選んだのは、『少年は残酷な弓を射る』(2011年)。母と息子を強く結びつけるファクターに“悪意”を鮮烈に描き出す本作は、石野に「複雑で強烈な余韻」を残したという。
『少年は残酷な弓を射る』あらすじ
自分のキャリアをあきらめて、夫の望みを叶えるために息子ケヴィン(演:エズラ・ミラー)を出産したエヴァ(演:ティルダ・スウィントン)。しかし生まれたときからケヴィンとの仲はうまくいかず、彼は母にだけ反抗する。心が通わないままに、ケヴィンは恐るべき少年に成長。そしてある日、彼は“ある事件”を起こし……。
※本稿には、作品の内容および結末・物語の核心が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください
母親・エヴァの感情が、自分に流れ込んできた
家で映画を観るとき、私はある傾向の作品を無意識に選んでしまいます。連載初回でも「救いようのない映画に救われる」と書きましたが、どうすれば登場人物たちがハッピーエンドにたどり着けたのか、そんな余韻と余白を感じさせる作品に、私は特別な愛着を抱くようです。
この連載でこれまで紹介した『ダンサー・イン・ザ・ダーク』や『シークレット・サンシャイン』、そしていつか紹介したいと思っているクレプスキュールフィルムの『私、オルガ・ヘプナロヴァー』、『システム・クラッシャ一』、『メイデン』なども、同様に深い余韻を残し、私の心に残る作品たちです。
今回もそんな私の心に深く刻まれた一本を紹介します。2011年公開、リン・ラムジー監督の『少年は残酷な弓を射る』です。

宣伝ポスターを見て気づいたのですが、英語のタイトルは「We Need to Talk About Kevin』(=「ケヴィンについて話す必要がある」)と、非常にストレートに議題を提示しています。個人的には、ケヴィンだけでなく、この家族を構成する母と父についても深く掘り下げて話すと、より作品のおもしろさが増すのではないかと感じます。
原題のとおり、主題を捉えるのは難しくないのですが、その内容はとても複雑で、時にタブーに踏み込みながらも、繊細さを失わない映画だと感じています。
初めて観たとき、私は物語の主軸である母親・エヴァに深く没入してしまいました。エヴァが感じる焦り、いらだち、憎しみがそのまま自分の中に流れ込んできて、観終わったあとには珍しく心底疲弊したのを覚えています。それほど、終始張り詰めた緊張感に圧倒される作品でした。
母親という立場や、母親としての生き方を描いた映画は数多くありますが、これほど母と子の愛憎関係や、母親の「直感」が生々しく描かれている作品は観たことがありませんでした。
「ケヴィンが来るまでママは幸せだった」
物語は、不穏な空気が漂う部屋でカーテンが揺れるカットから始まります。続いて、冒険者として各国を巡っていたであろう母親・エヴァが、スペインのトマト祭りで笑顔を浮かべながら真っ赤なトマトに埋もれていくシーンへと移ります。この作品では、エヴァの未来を暗示するかのように、「赤」を使ったメタファー的なカットが何度も登場します。
序盤からこのような示唆に富んだ映像が出てくるため、一見すると家族の日常を描いているにもかかわらず、まるでサスペンス・スリラーのような緊張感に引き込まれます。
また、エヴァの過去と事件後の現在がフラッシュバックのように頻繁に行き来するのも特徴的です。これらの時間の交錯は、のちに息子・ケヴィンの言動とも複雑にリンクしていくため、物語の重要なポイントとなっています。
自由に旅をして生きてきたエヴァは、思いがけずパートナーのフランクリンとの子を授かります。妊娠が判明した途端、彼女の顔色から生気が失われ、表情が硬直していきます。夫のフランクリンは、面倒なことには見て見ぬふりをするタイプなのか、エヴァの気持ちを深く汲み取ろうとはしません。
そして、ケヴィンが生まれます。エヴァの表情や気持ちは変わらず、むしろ子育てに疲弊している様子がうかがえます。まったく泣きやまないケヴィン、やっと寝ついたかと思えば、ケヴィンを抱き上げて揺さぶる無神経な夫。この時点で、エヴァが抱える育児のフラストレーションや積もり積もった神経質な感情が、観ている私たちにまで伝わり、エヴァの心情に没入させられます。
ケヴィンが少し成長しても状況は変わりません。エヴァが遊ぼうと誘っても、ケヴィンはエヴァをにらみつけるようにじっと見るだけで、次第に母のエヴァにだけ反抗的な態度を示すようになります。あるとき、エヴァはケヴィンに対するいらだちを抑えきれず、作り笑いを浮かべながら言います。
「ケヴィンが来るまでママは幸せだった」
「でも今は毎朝起きるとこう思うの、フランスへ行きたい」
ケヴィンは非常に感覚が鋭く、早熟なため、エヴァの言葉の意味を完全に理解できていなくとも、自分に向けられた母の感情を敏感に感じ取っていたことでしょう。
一部始終を目撃した夫は「子供時代は一度きりだ」と引っ越しを提案します。そして、夫もまた、エヴァに少しずつ「母親としての罪悪感」を植えつけていくのです。
引っ越し先でも、自分だけのオアシスを見つけたかのように、かつて使っていた世界地図を自分の部屋の壁一面に貼り巡らせるエヴァ。しかし、そんなエヴァの部屋の壁紙に、ケヴィンはわざとペンキをまき散らし、汚します。まさに、互いに向けられた憎しみが剥き出しにされた瞬間でした。
エヴァが何かを教えようとしても、ケヴィンは嘲笑うように歯向かい、煽ります。次第にケヴィンはエヴァとふたりきりになると非常に気まずそうで不愉快な態度を示しますが、父が来るとスイッチが切り替わったようにご機嫌になります。
やがて、ケヴィンに妹のセリアが生まれます。両親の関心が妹に向くと、ケヴィンはさっそく生まれたばかりのセリアに水をかけるなど、いたずらをし始めます。
親からすれば、関心を引こうとしなくとも、本来はじゅうぶんに愛情の対象であるはずなのに、ケヴィンは親への関心の引き方がわからないのだなと強く感じさせられた場面でした。
ある日、ケヴィンが体調を崩したときに、これまでに見たことないほどまっすぐにエヴァに甘えます。様子を心配した父がケヴィンの部屋を訪れると「出てって ダルいんだ」と、母とふたりきりの時間をジャマするなとでも言うような態度を取りますが、まさにエディプス・コンプレックスを感じさせるシーンでした。実は、ケヴィンがもう少し幼いころにも、フランクリンがエヴァを抱きしめるところをケヴィンがにらみつけるような場面がありましたが、このシーンはよりその感情がわかりやすく描かれていました。
卵の殻と噛んだ爪を並べるふたり
ある日、父親がおもちゃの弓矢のセットをケヴィンに与えますが、弓矢への興味はそのまま思春期まで続き、腕前と嗜虐性も伸びていきます。
ケヴィンが青年になりクリスマスを控えたころ、エヴァがケヴィンにふたりで遊ぼうと誘います。この日に遊ぶことで、エヴァとケヴィンが非常に似た性質のふたりであることがはっきりします。
たとえば、太った人を批判するエヴァに対し、ケヴィンは「きついね」と返しますが、エヴァは「それはあなたもでしょう」と雑談をする場面があります。回想シーンでは、几帳面に卵の殻を皿の隅に並べるエヴァと、事件後の面会中に噛んだ爪を机に並べていくケヴィンなどがあり、エヴァが扱いにくく恐れていた息子は、皮肉にもエヴァに酷似した存在であることが見えてきます。
ケヴィンの加虐性がエスカレートし、自宅で飼っていたモルモットが消えたり、セリアが左目をケガして義眼になったことで、エヴァはすべてケヴィンのせいだと考えますが、フランクリンは取り合わず、エヴァに「一度カウンセリングを受けろ」と責任を負わせます。
その後、エヴァはフランクリンから離婚を切り出されますが、そのふたりの会話を聞いてしまっていたケヴィンは「僕のせいだろ」と吐き捨てます。
家庭状況の変化に、ケヴィンの心も何かを決意したのかもしれません。16歳を迎える数日前に、彼は高校の体育館に立てこもり、あの事件を起こします。
連絡を受けエヴァが現場に着いたころには物々しい状況で、ケヴィンが出てきたと同時に、悲鳴にも歓声にも聞こえるような声が聞こえてきます。そして負傷した生徒が運び出されます。
放心したまま家に戻ったエヴァ。夫と妹を探しますが、電気が消えており、気配がありません。そして、序盤にも登場した不気味なカーテンのシーンに戻り、その先の庭で、矢が刺さった夫・フランクリンと娘のセリアが倒れていました。
この歪な親子の姿は、観る者に非常にショッキングな印象を与えます。そして、家族というものは、必ずしも最初からウマが合うとか、そういうものではないのだと、現実を突きつけられたようでした。描写の一つひとつに意味があるように感じられる作品です。ぜひ、鑑賞して複雑で強烈な余韻を味わってみてください。