又吉直樹と秦 基博による言葉と音楽の往復書簡『隣人もまだ起きている』が生まれた春の夜
又吉直樹(ピース)がホストとなり、アーティスト・秦 基博を迎え、朗読×音楽でコラボするスペシャルなツーマンライブ『隣人もまだ起きている』が、3月20日に豊洲PITで開催された。
言葉と音楽の往復書簡。一度限りのエクスクルーシブな夜を演出した同公演を、ライターの折田侑駿がレポートする。
「私やあなたがうまく眠れないとき、きっと隣人もまだ起きている──」
朗読×音楽によるスペシャルな一夜
2024年3月20日、春分の日──。
暦の上ではもう春がやってきているというのに、なかなか冬物のコートを手放せないでいて、本当の春の訪れを待ち侘びている。
そんな日の夜に、特別なイベントが開かれた。場所は豊洲PIT。『隣人もまだ起きている』である。
これは、お笑い芸人で作家の又吉直樹(ピース)がホストとなり、ミュージシャンの秦 基博をゲストに迎えて提供する“朗読×音楽”のスペシャルなツーマンライブ。ともに1980年生まれのふたりがライブ空間で繰り広げる、言葉と音楽の往復書簡だ。
企画内容は至ってシンプル。又吉が自作の文章を朗読し、秦がギターで弾き語り。時折ふたりのパフォーマンスが交差する。
東京に春の嵐がやってきた3月20日。どうにか会場にたどり着くと、スペシャルな一夜はしっとりと幕を開けた。時刻は17時。悪天候とはいえ、まだ日の入り前のことだ。
又吉がオーディエンスに呼びかけた「リラックス」
イベントの構成は、又吉が自己紹介をしたのちに数本の朗読を披露し、続いて秦によるライブパフォーマンスが展開。再び又吉が朗読し、最終的には大胆なコラボレーションへと発展していくものになっていた。
まず印象的だったのは、又吉が登場するなり自虐的に笑いを取ると、オーディエンスに対して「リラックスしてほしい」と呼びかけていたこと。近年、「朗読」という表現形式の熱が高まりつつある。いや、正確にはこういったパフォーマンスは以前からあった。実際のところ又吉はこれ以前にも数々のイベントで朗読を披露している。いろんな制限が課されたコロナ禍が影響してか、はたまた誰かが火つけ役となったのか(又吉かもしれない)。ともかく一部でブームになっているのだ。
朗読の発表の場はさまざまだが、お笑いや音楽のライブとはまったく異なる。たとえば、お笑いや音楽の場合はパフォーマーとオーディエンスの間にレスポンスが生まれる。これは厳密にいえば演劇や朗読にだってみなが同じ時間と場を共有している以上は生まれるものだが、やはりお笑いや音楽の場合は顕著だ。パフォーマンスに対して、会場内の誰もが笑ったり身体を揺らしたりすることが大前提としてある。
そこでは、見る/見られる、聞く/聞かせるという関係が常に入れ替わりながら時間が進んでいく。これに対して朗読とは基本的に、パフォーマーとオーディエンスとの関係性が一貫していて変わらない。自然と緊張感が生まれるが、『隣人もまだ起きている』に関しては別。音楽と朗読を溶け合わせるには、まず会場内の一人ひとりが緊張を解く必要がある。だから又吉が笑いを取りつつ「リラックスしてほしい」と呼びかけたのは必然で、すぐに会場内の緊張が解けたのは、彼のルーツが「お笑い」であることと無関係ではないと思う。
実際、会場内の雰囲気は熱狂的なものではなく、春のまどろみの中のよう。又吉と秦の軽快なパフォーマンスに誰もが聞き入り、時にゆるやかなレスポンスが自然と生まれていた。
完全なるコラボレーションが実現した『隣人もまだ起きている』
さて、では『隣人もまだ起きている』の公演内容はどのようなものだったのか。ネタバレになるので詳細は避けつつ、簡単に振り返っていく。
“眠れない夜を過ごしていた。”の一節から始まる「自己紹介」を又吉が読み上げると、続く「春かもしれない」では日常に見られるさまざまな“春の訪れ”について優しく語った。
個々の観客の中に生まれたイメージに又吉が自身の姿を重ねてみせる。懐かしい人々が目の前にいるようだ。さらに、又吉ならではの世界の見方に触れられる、そんな朗読が続いた。
又吉の朗読を受けた秦が「在る」を柔らかく歌い上げることにより、自然とバトンが渡っていく。そして「恋の奴隷」を歌唱し、「猿みたいにキスをする」では又吉がラップ調で朗読。ここで少しだけコラボレーションが実現する。
さらに、「逃げたくなってくる」という又吉のエピソードトークのような短い朗読に秦が「Fast Life」を重ね、「キミ、メグル、ボク」とアップテンポな曲を続ける。オーディエンスは手拍子を取り、会場内にはより明確でゆるやかな一体感が。そして「メトロ・フィルム」まで秦が歌い上げると、今度は又吉が20分超えの力作「月の裏側」を披露。まるで短編小説のような力作とはいえ、その語り口は変わらず肩の力の抜けたもの。又吉の言葉選びと文体で綴られた文章が、又吉自身の声によって私たちへとダイレクトに響いてくる。
やがて「太陽のロザリオ」でふたりの完全なるコラボレーションが実現。秦の楽曲から影響を受けた又吉が文章を綴り、それをこの場で読み上げる。かつて思い描いていた将来の自分と現在の自分とを照らし合わせ、秦の詩と歌声がそのすべてを肯定する。
客席にいる自分も肯定されている気がしたのは私だけではないだろう。又吉が等身大の視点で語る言葉の数々に、誰もが自分自身を重ねたはずだから。
朗読の可能性
又吉の朗読によるパフォーマンスは、彼だからこそ成立しているところが多分にある。それは彼が人前で何かを披露するプロなのだから当然といえば当然かもしれない。しかしそれ以上の強みとして挙げられるのが、彼がお笑い芸人かつ作家であり、自身が生み出した文章を自ら読み上げるところにある。
誰だって簡単に情報発信できる時代だけれど、自分の言葉を世に出すというのはけっして楽なことではない。それは世界に対して自分自身を開示していく行為。時には世間から賞賛を得るかもしれないが、その一方でどこかの誰かを傷つけてしまったり、自己開示によって自分自身が傷を負うこともある。匿名的な言葉があふれる現代において、その責任の所在は曖昧だ。
又吉の場合は、これを自分自身で読み上げる。誰かが書いたものを読むのと、自分が書いたものを読むのはまるで違う。つまり彼の朗読は、自分の言葉に責任を持って自らが挑む行為だといえる。
俳優による朗読劇のようなダイナミズムやスリルがあるわけではない。又吉は又吉自身の言葉を朗読として、自ら発する。それらは借り物の言葉に彩られたものではないし、演技がかったものでもない。
私たちは彼の言葉と声を通して、又吉直樹という人間の心に触れる。イベントのホストである彼が心を開いているからこそ、私たちも心を許してリラックスできるのだ。
この場に居合わせたうちの何人かは、いずれどこかで朗読をすることになるのではないか。うまくなくたっていいのだ。又吉が提示する朗読の可能性はこれからも拡がっていく。
会場の外はすっかり夜、そして春
春といえば、目覚めの季節である。そこには別れを経たあとの、新たな出会いがある。期待で胸がふくらむ一方、漠然とした不安に苛まれることだってある。そんな夜は眠れなかったりするかもしれない。
大きな“変わり目”というのは常にそういうもので、春とはまさにそんな季節なのだ。
さて、タイトルの『隣人もまだ起きている』にはどのような意味が込められているのだろうか。まだ起きている「隣人」とは、誰のことを指すのだろうか。
それはたぶん私のことであり、あなたのことなのだと思う。又吉や秦にとっての「隣人」は私やあなたであり、私たちにとっての「隣人」は彼らなのだ。
私やあなたがうまく眠れないとき、きっと隣人もまだ起きている──。肩の力を抜いて、リラックス。
会場から外へ出るとすっかり夜で、嵐はもう過ぎ去っていた。
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