『オッペンハイマー』は反戦・反核映画なのか?ノーランの作劇術から検証する
クリストファー・ノーラン監督による超大作『オッペンハイマー』が、いよいよ3月29日(金)より劇場公開された。
物理学者ロバート・オッペンハイマーの生涯を描いた本作には、キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ラミ・マレック、ケネス・ブラナーら豪華キャストが大挙出演。第96回アカデミー賞では13部門にノミネートされ、作品賞を含む最多7冠に輝いた。
そしてこの映画は、日本公開が決まるまでにさまざまな物議を醸し、反戦映画か否かで議論を呼んだ作品でもある。本稿ではクリストファー・ノーランの作劇術を検証し、その内容についてレビューする。
目次
「バーベンハイマー」現象とはなんだったのか
『オッペンハイマー』が日本公開されるまでには、さまざまな紆余曲折があった。アメリカで今作が公開されたのは、サマーシーズンの2023年7月21日。この日は、グレタ・ガーウィグ監督の話題作『バービー』の公開日でもあった。普通はビッグ・タイトル同士を同日に公開することは避けるものだが、「科学者の半生を追った歴史映画と、着せ替え人形を通して女性のエンパワーメントを描いたエンタメ映画では、客層がまったく異なる」という判断から、同日公開に至ったものと思われる。
すると、この2作品を一緒に映画館で観ようと呼びかけるムーブメント「バーベンハイマー」(バービーとオッペンハイマーをかけ合わせた造語)が巻き起こる。『オッペンハイマー』のターゲット層が『バービー』を、『バービー』のターゲット層が『オッペンハイマー』を鑑賞するという好循環が生まれたのだ。初週の北米週末興行で『オッペンハイマー』が8050万ドル、『バービー』が1億5500万ドルという驚異的な数字を叩き出し、最終的には10億ドルを稼ぐ大ヒット。アメリカの映画市場を賑わせた。
この現象が盛り上がった背景には、全米脚本家組合(WGA)と米俳優労組(SAG)によるストライキがある。多くの作品が撮影中断を余儀なくされた危機感から、「ひとりでも多くの観客が映画館に足を運んでほしい」という運動につながったのだ。
抑えておくべきポイントは、「バーベンハイマー」は配給会社や宣伝会社が仕掛けたキャンペーンではなく、映画ファンによる自発的なムーブメントである、ということ。SNSにおける爆発的な盛り上がりによって、『オッペンハイマー』と『バービー』は空前のメガヒットを記録したのである。
問題だったのは、バービーがキノコ雲をバックにポーズをキメるような、原爆というモチーフを無邪気にコラージュした画像がSNSで投稿され、ワーナー・ブラザースの公式アカウントも好意的な反応を示してしまったこと。たちまち炎上する事態に陥り、後日ワーナーは「配慮に欠けていた」と謝罪する。
そもそも被爆国である日本では、原爆を開発した人物の伝記映画に対して、警戒する動きも少なからずあった。10年前には、アンジェリーナ・ジョリーが監督した『不屈の男 アンブロークン』(2014年)は、日本軍による執拗な虐待描写が反日的であるとして、上映中止を求める運動が起きている(実際には2016年に公開された)。「20万人以上が死亡した原爆の恐怖を、真正面から描いていない」という批判があった上に、「バーベンハイマー」騒動も重なって、このまま上映スルーされるのでは……という噂もささやかれたりもした。
最終的には2023年12月7日になって、映画配給会社のビターズ・エンドが2024年に公開することを発表。映画史でも重要な位置を占めるであろう『オッペンハイマー』は、ようやく日本公開される運びとなった。
主観と客観で暴き出す、オッペンハイマーの二面性
この映画は、非常に特異な構成で作られている。安全保障に関する公聴会に召喚されたオッペンハイマー(キリアン・マーフィー)の視点で描く「Fission(核分裂)」というカラーパートと、商務長官の承認公聴会に出席した米国原子力委員会長官ルイス・ストローズ(ロバート・ダウニー・Jr.)の視点で描く「Fusion(核融合)」というモノクロパートの、ふたつの時間軸で構成されているのだ。
もともとクリストファー・ノーランは、複雑な時系列操作でストーリーを紡いでいく映画作家。デビュー作の『フォロウィング』(1999年)から時系列は巧妙にシャッフルされていたし、『メメント』(2000年)は10分刻みで時間が遡っていくというトリッキーな構造だった。『ダンケルク』(2017年)に至っては、陸=1週間、海=1日、空=1時間の出来事をクロスカッティングさせて描くという、特殊な構造になっている。
なぜノーランは、ロバート・オッペンハイマーというひとりの男の半生を描いた伝記映画においても、ふたつの時間軸で物語を構築したのだろうか。彼は脚本に関して、こんな発言をしている。
一人称で脚本を書きました。この映画は客観的であり、主観的でもある。カラーシーンは主観的で、モノクロシーンは客観的なのです。
Nolan Clarifies How ‘Oppenheimer’ Script is Written in “First Person” — World of Reel
オッペンハイマーの人生をオッペンハイマー自身が顧みる視点と、ストローズを通してオッペンハイマーを批判的に捉える視点。主観と客観による複眼的な視座によって、単一的な眼差しから逃れ、徹底的に相対化させること。おそらく、それがノーランの狙いだったのだろう。原爆製造の責任者でありながら原爆の恐怖を訴え、アメリカに忠誠を誓いながら共産主義者との連帯を築き、妻と子供を愛しながら不倫に走った男の矛盾を、単純化させずにそのまま描出したのだ。
劇中のあるシーンで、「光の性質は粒であり波である」という説明がなされる。本来は両立し得ない光の二面性を解き明かしたことで、20世紀初頭に量子力学という新しい現代物理学の礎が築かれた。だがそれは、観測者が粒子の状態を観察するまでは結果が確定しないという、にわかには飲み込みにくい理論でもある(観察者効果と称される概念)。
アルベルト・アインシュタインは「私が見ていなくても月はたしかにそこにあるはず」、「神はサイコロを振らない」という言葉を残して、最後まで量子力学に反対の立場を貫いたという。幾度となくインサートされる幾何学的な量子世界のヴィジョンは、矛盾が共存する量子力学の二面性と、オッペンハイマーの二面性を表している。
原爆の恐怖をどう描くか? 抽象的・内面的なアプローチ
『プラトーン』(1986年)、『7月4日に生まれて』(1989年)で2度のアカデミー監督賞に輝いたオリバー・ストーンは、「彼の演出は、膨大な量の出来事を興奮に満ちたアクションの奔流へと循環させ、気が遠くなるような、目を見張るようなものにしている」と激賞。『タクシードライバー』(1976年)の脚本で知られるポール・シュレイダーは、「もし今年映画館で映画を1本見るとしたら、それは『オッペンハイマー』であるべきだ。私はノーランのファンではないが、この作品はそのドアを吹き飛ばしてしまった」と、絶賛コメントを寄せている。
その一方でスパイク・リー監督は、「素晴らしい映画だ」と前置きした上で、「もし『オッペンハイマー』が3時間だとしたら、私は日本人に何が起こったかについても、さらに何分かつけ加えたい。人々は蒸発した。何年にもわたって、人々は放射能に汚染されてきたんだ」と述べている。核兵器の恐ろしさをより明確に描く必要があったのでは?と疑問を投げかけているのだ。
たしかにノーランは、広島・長崎の惨状を直接的に描いてはいない。果たしてそれは、本当に原爆を描くことに対する忌避なのだろうか。そもそも本作は、オッペンハイマーの視点とストローズの視点によって作られているのだから、スパイク・リーが言う「日本人に何が起こったか」について描くには、別の人物の視点が必要となる。だがそれよりもノーランは、自ら生み出した兵器によって、20万人以上に及ぶ人間を死に追いやった現実に苦しむオッペンハイマーの、内面の奥深くにフォーカスすることを選択した。
池のほとりで交わされる、オッペンハイマーとアインシュタインの会話。自分を中傷したやりとりだとストローズは長らく思い込んでいたが、それはオッペンハイマーの強烈な悔恨だったことがラストで明かされる。原子の爆発が大気を引火させる連鎖反応となって、地球を壊滅させる可能性があったことを知りながら、トリニティ実験を敢行してしまったこと。そして、原爆という兵器を生み出したことで、軍拡競争という連鎖反応に加担してしまったことに対する慙愧(ざんき)。
その想いは、量子世界が渦巻くオッペンハイマーのインナーワールドに入り込み、最先端の理論物理学を象徴する核融合・核分裂が、次第に大量殺戮兵器の悪夢的イメージへと侵食されていくことで、視覚的に表現される。極めて抽象的・内面的なアプローチだ。
最も象徴的なのは、オッペンハイマーが原爆によって顔面が溶けた女性を幻視するシーンだろう。被爆者を演じたのは、ノーランの実娘フローラ。撮影現場の見学に来ていた彼女を、その場でキャスティングしたのだという。それは、「究極の破壊兵器を生み出せば、身近にいる大切な人たちをも破壊してしまう」という表明でもあるはず。原爆の恐怖を直接的に描くのではなく、原爆の恐怖に真正面から向き合った男の内面に観客を同一化させることが、ノーラン的作劇術なのである。
筆者は本作を、まごうことなき反戦・反核映画だと考える。
倫理なき技術革新への警鐘
思えばノーランはそのフィルモグラフィーにおいて、世界の秩序を根底から覆すようなマシーンを描き続けてきた。『プレステージ』(2006年)でニコラ・テスラ博士が創り出した、けっしてその領域に踏み込んではいけない禁断の装置。『ダークナイト』(2008年)でバットマンが創り出した、ゴッサム・シティのあらゆる通信を傍受するシステム。『TENET テネット』(2020年)にも、アルゴリズムと呼ばれる時間を逆行させるテクノロジーが登場する。
特に『TENET テネット』は、主人公たちが第三次世界大戦の勃発を防ごうとするアウトラインといい、プルトニウムをめぐる攻防といい、『オッペンハイマー』と直線的に連なる作品といえるだろう。実際にノーランは、『TENET テネット』で核がもたらす脅威を描いたことが、今作を制作することにつながったと発言している。倫理なき技術革新への警鐘。それもまた、ノーラン的な反戦メッセージのひとつなのである。
『オッペンハイマー』は、主観と客観が並置され、複雑に時系列が絡み合い、数多くの登場人物が入り乱れている。ストーリーを正確に理解するためには、たしかにある程度の予備知識が必要となるだろう。だがこの映画で最も重要なのは、何度も繰り返されるオッペンハイマー=キリアン・マーフィーのクローズアップだ。IMAX®レーザー/GTテクノロジーの劇場であれば、1.43:1の画角のフルサイズで、苦悶に満ちた彼の表情がスクリーンいっぱいに広がる。そして我々はオッペンハイマーの内面にアクセスして、その心情を慮り、人類が犯した過ちに想いを馳せる。
もう一度繰り返そう。『オッペンハイマー』は、まごうことなき反戦・反核映画である。
作品情報:『オッペンハイマー』
3月29日(金)より全国ロードショー中
IMAX®劇場 全国50館 /Dolby Cinema®/35mmフィルム版 同時公開
配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画
監督・脚本・製作:クリストファー・ノーラン
製作:エマ・トーマス、チャールズ・ローヴェン
出演:キリアン・マーフィー、エミリー・ブラント、マット・デイモン、ロバート・ダウニー・Jr.、フローレンス・ピュー、ジョシュ・ハートネット、ケイシー・アフレック、ラミ・マレック、ケネス・ブラナー
原作:カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー』(2006年ピュリッツァー賞受賞/ハヤカワ文庫)/アメリカ
2023年/アメリカ 配給:ビターズ・エンド ユニバーサル映画 R15
(C)Universal Pictures. All Rights Reserved.
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