雑居ビルにひっそり店を構えるマッサージ屋さん、顔も名も知らぬ誰かに体を委ね、徐々に意識が遠くなっていくその一瞬、金井球の脳内に広がる美しきワンダーランド。
第3回は、隣の個室で「ぐごごごご……」と大いびきを立てる老紳士との邂逅録。

となりの個室の先輩
けつが出てしまっている。わたしの臀部は普段けっこう「おしり♪」なのだけど、いまにかぎっては完全に「けつ」である。人の前で、完全なるけつが出てしまっている。完全にあらわになったけつを、蒸らされたタオルが荒々しく撫でる。こする。削り取る。磨く。ぴかぴかの泥団子でもつくっているのでしょうか。否、オイルリンパである。
いつでもマッサージに行きたい。
きょう、わたしは唐突に電車に乗った。またもや唐突にマッサージを予約したために。実家を出て4年ほど住んだあの街には、いくつか行きつけのマッサージ屋がある。ひさびさにあの手に揉まれたいものだ、と、予約サイトを開く、と、ポイントが500円分貯まっていることに気がつく。500円というのはすごいことだ、お祝いだ、せっかくお祝いなら、とくべつにあたらしいことをしよう、のオイルリンパである。
そんなこんなでわたしは、はじめて愛をもって住んだこの街の、ちいさなマッサージ屋のちいさなベッドで、はじめて紙のパンツを履いてうつ伏せになっている。個室へ通され、紙パンツと胸に巻くためのタオルを渡されたときにはさすがにギョッとした。屋内とはいえ外で、いちど完全な全裸になるのだから。たしかに、オイル塗るんですもんね、あはは、いやー、それにしても、は、恥ずかしいですな、あはははは。などと思ったのも束の間、わたしはものすごい力でからだを拭かれている。こればっかしは強がりとかではなく、ほんとになかなか清々しい気分なんです。
いまこの瞬間、わたしには自意識などがまったくもって、いらない。雑にけつをひん剥かれ、ゴシゴシと余分な皮脂を削り取られた段階で、わたしは人間であることをやめたのだ。尊重されないということはときに心地がいい。この人にとってわたしはほぐす用の肉。いわば、ほぐし肉。これこそ理想。わたしはほぐし肉になるために、マッサージ屋に通っているんですもの、おほほほほ……。
すべての皮脂がなくなったころ、たっぷりとした油を塗られる。つづいて、首、肩甲骨がみるみるほぐされている。ああきもちい。これのための猫背、これのためのストレートネック。ほんとうに、一生終わらないでほしい。ああこれいま何分くらい経ったんだろう。あれ、これって拭いたり塗ったりしてた時間も60分のうちなのかな。だめだだめだ、そういうのは考えないでみよう。こんなにきもちいのだから。無視無視。いまだけを見るぞ。いまだけを感じるぞ……。
ぐごごごごご……。
ところで先ほどから、いびきが聞こえる。となりの個室からだ。こういうとき、わたしはとなりの個室を個室ごと大尊敬する。

まず、ほぐす側。うん、わたしだったら完全にサボるね。相手が気がつかないのならば確実にサボる。おそらくちょっとずつサボりの割合を増やしていくと思う。完全に揉むのをやめるとかはおそらくしない、臆病者だから。となりの個室からは、ぐごごごごごご、のほかに、定期的にベッドの軋(きし)む音がする。サボってないことのなによりの証拠である。
そして、同じくらいすごいのはお客の彼。わたしはマッサージ屋で爆睡できたことがない。マッサージ屋で爆睡できることは、はちゃめちゃに、クール。わたしがマッサージ中に寝られない理由には、ついつい思考が捗(はかど)ってしまうことのほかに、寝たら損なのではないか、という貧乏心がある。しっかりきっちり、揉まれることのできるぶんだけきもちのよい思いがしたい。そうなると、わたしは施術開始時に押されたタイマーに、いま数字がいくつ残っているのかがどうしても気になってしまう。寝るとかどころでない。そんな邪念なく、自分がいま寝たらどれだけきもちがいいかとかだけを優先できる彼は、わたしよりずっと質の高いほぐし肉である。ほぐし肉先輩っ! 憧れます。
いまのところいびきしか情報のない先輩だが、どんな御人なのだろうか。かいているいびきからか、勝手に、かなり丸いフォルムを想像してしまう。口ひげを蓄えた先輩は、マッサージを受けているというのにタキシードを着ている。タキシードを着てうつ伏せで目を瞑(つむ)る太った初老の先輩は、さながらペンギン。タキシードサム。先輩ともなると、服装などはまるで関係なくほぐし肉になれるのですね。かたやわたしはほぼ全裸で、けつが出ており、わたしを揉む手はわたしを人間とも扱わずにいてくれている。なのに、なのに、いまが60分コースの何分目なのかということばかりが気になって……。
ぐごごごご……ばん!と、からだを叩く音がした。どうやら、ほぐし肉先輩の施術が終わったようである。この店には、帰り際のドリンクサービスがある。温かいお茶か、冷たいお茶を飲んでいけるのだが、わたしが目指すべき先輩の輪郭をたどるためには、大事な情報であろう。先輩は、どちらを選ばれるのですか。「あったかい……」声から察するに、先輩はめっちゃおじいさんであった。おじいさん、と頭のメモに記す。「白湯(さゆ)を……」まさかの、選択肢にない白湯を頼むとは、玄人ですね、先輩はやはり。こちらは今日からでも真似ができそうなので、おじいさん、のとなりに太字で記しておく。
先輩は店を去り、わたしはけつまでをほぐされ終わり、ふたたび上半身をごしごしと拭かれる。え、これで終わりだったらどうしよう。足もほぐしてもらえるのだろうか。足もほぐしてもらえる場合、ここで60分コースの半分まできたということなのだろうか。頭の中にはもうガリレオばりの数式が浮かんでいる。邪念のかたまりである。先輩からなにを学んだというのだろう。
数分後、しっかり足までほぐしてもらい、着てきた服に着替え終わったころ、温かいお茶か冷たいお茶か、と尋ねられる。わたしはどうにも勇気が出ず、小さな声で「あったかいので……」と答えたのであった。

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