約60年前の虐殺加害者を追う“残酷な傑作”。実行犯の嘔吐(えず)きを、なぜカメラは捉えたのか?(石野理子『アクト・オブ・キリング』レビュー)
2023年よりソロ活動を開始し、同年8月にバンド・Aooo(アウー)を結成した石野理子。連載「石野理子のシネマ基地」では、かねてより大の映画好きを明かしている彼女が、新旧問わずあらゆる作品について綴る。
第16回は、ジョシュア・オッペンハイマー監督によるドキュメンタリー映画『アクト・オブ・キリング』。1960年代のインドネシアで起きた大虐殺の加害者たちにカメラを向けるという異様な構造で、世界に衝撃を与えた一作だ。彼らはなぜ、過去を語り、さらには“演じる”のか。フィクションと現実の境界が反転するその瞬間、本作は観る者の倫理観を静かに、しかし確実に揺さぶっていく。
『アクト・オブ・キリング』あらすじ
1960年代、インドネシアで“共産主義者”と疑われた人々が、数10万から100万人規模で虐殺された。本作は、その実行に関わった元民兵たちに焦点を当て、彼ら自身の視点から当時の出来事を語らせる。さらに監督は、彼らに自らの記憶をもとに映画として再現することを提案。ハリウッド映画の影響を受けた彼らは、ミュージカルやギャング映画のような様式で過去の暴力を“演出”する。だが、その再演の過程で、彼らの内面には次第にある変化が生じていく──。
※本稿には、作品の内容および結末・物語の核心が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください
これまでの映画と異なる鑑賞体験
先の見えない不安なニュースが続く今、フィクションの世界さえも、時々現実に追い越されているような気がします。「事実は小説より奇なり」なんて言葉もありますが、ドキュメンタリーが映し出す「生身の人間」の迫力は、娯楽という枠を飛び越えて、私たちの穏やかな日常を激しく揺さぶってくることがあります。

普段の私は、映画を「自分を映し出す鏡」のような存在として楽しむことが多いのですが、今回ご紹介するジョシュア・オッペンハイマー監督の『アクト・オブ・キリング』だけは、これまでの鑑賞体験と明らかに異なっていました。心のどこかが、ざわざわ、ざらざらする。そんな嫌悪感や不快感を抱えたまま、映画はじわじわと衝撃のラストへと進んでいきます。「胸糞が悪くなる」という言葉は、きっとこういう瞬間のためにあるのだと、私は身をもって知ることになりました。
加害者視点で描く“大虐殺のそのあと”
舞台はインドネシア。1960年代に行われた100万人規模の大虐殺。その実行犯たちは、裁かれるどころか、今も国民的英雄として堂々と、豊かに暮らしています。
当初、監督は被害者側の視点を追おうとしましたが、当局の妨害に遭います。しかし、被害者遺族から投げかけられた「加害者に話を聞いてみてはどうか」という言葉が、この映画を唯一無二の残酷な傑作へと変えていきます。
カメラの前に立った加害者たちは、自らの殺人をオープンに誇らしげに、笑顔で、当時の凄惨な拷問や殺害の手口を語り始めるのです。監督は彼らに「あなたたちの行った行為を、自ら脚本を書き、映画として再演してみませんか」と提案してみます。すると、楽しげに拷問や殺人のシーンを演じていく彼らでしたが、撮影が進むにつれて再演が彼らに変化をもたらしていくのです。
「映画より俺たちのほうが残虐だった」
中心人物となるのは、殺人部隊のリーダーであり、かつては映画館のダフ屋をしていたというアンワル(・コンゴ)。彼は自分たちを「プレマン(自由な男)」と呼び、その語源が「フリーマン」であることに誇りを持っています。悪事すらも自由の証明であると信じる、地元のギャングです。
アンワルは、自分が映画好きであったことから、殺人の手法さえもハリウッド映画から影響を受けていたと告白します。「映画より俺たちのほうが残虐だった」と。その言葉には、フィクションを超えたことへの優越感がにじんでいました。

撮影が始まると、彼は自分の映り方を気にし、髪を染め、衣装を選びます。自らの悪行を「未来に残すべき歴史」として、華やかなエンタテインメントへと昇華させようとしているのでしょうか。しかし、彼らが、必死に胸を張っているのは、自らを正当化するために「歴史」や「愛国心」という大きな言葉を借りながらも、どこかで過ちに気づいているからではないかと私は思い始めました。
映画の撮影が中盤に差しかかると、再演という演じる行為が、彼らの深層心理に作用し始め、アンワルは 「夜、目を閉じると、あの犠牲者の目が脳裏によみがえる」 と悪夢にうなされていることを告白します。それに対し、仲間は「罪悪感があると守りが崩れるぞ」と忠告するのですが、このやりとりこそが、彼らの拠りどころのなさを示しているようでした。彼らは一生懸命に威張り続け、責任を「歴史」に転嫁しなければ、心が壊れてしまうことを悟っている気がしたからです。
自分をジャッジするのは自分
映画の終盤、アンワルは自ら被害者役として、首を絞められるシーンを演じます。そして、完成した映像を孫と一緒に鑑賞するのですが、そのときの彼の顔から、それまでの笑顔や高揚感は消え去っていました。「俺が拷問した人も、同じ気持ちだったかな。尊厳を踏みにじられる恐怖が、体を取り囲んだ」。
誰からも糾弾されない社会にいても、自分自身だけは、自分の行いを知っている。演じることで他者の痛みを追体験してしまった瞬間、彼が築き上げてきた英雄という虚像に亀裂が入ったようでした。
本作は、心理療法のひとつであるサイコドラマのような機能を果たしています。自らの過去を演じ、客観的に眺めることで、心の奥底に封じ込めていた真実と向き合わざるを得なくなる。この偶然の産物ともいえる過程が、作品を単なる記録映画以上の、人間心理の深淵をのぞく芸術へと押し上げています。
また、本作が示すのはミルグラム実験(権威者の指示に従う人間の心理状況を実験したもの)にも通じる閉鎖的な集団心理の危うさです。「殺さなければ、自分が殺される」という極限状態において、道徳観は容易に崩壊し、善人すらも冷酷な実行犯になり得るのです。そして、それを受容し、賛美してしまう社会(国営放送が虐殺を英雄伝として放送する狂気)の恐ろしさよ……。誰からも咎められない状況下で、人間の倫理がいかに無力であるか。この作品は、その残酷な事実を容赦なく暴いています。
この作品を通じて、改めて自分自身に強く言い聞かせました。 私たちは、自分の自由意思や人生の決定権を、けっして他人に委ねてはならない。たとえ社会が、権威が、あるいは時代が「これが正解だ」と説いても、最後に自分の行いを見つめるのは、自分自身なのだと。
アンワルが最後に放った、言葉にならない嘔吐(えず)き。あの生々しい拒絶反応こそが、隠しきれない、良心の最後の叫びだったように思えてなりません。
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