「兄の話をしてはいけない」家族の話。崩壊する“普通の人々”に受けた「静かな衝撃」と、そこへ重ねた個人的な体験(石野理子『普通の人々』レビュー)

文=石野理子 編集=菅原史稀


2023年よりソロ活動を開始し、同年8月にバンド・Aooo(アウー)を結成した石野理子。連載「石野理子のシネマ基地」では、かねてより大の映画好きを明かしている彼女が、新旧問わずあらゆる作品について綴る。

第15回は、名優として知られるロバート・レッドフォードが初監督を務めた『普通の人々』(1980年)。アカデミー賞作品賞をはじめ主要4部門を受賞した本作は、一見どこにでもある中流家庭の崩れゆく日常を静かに見つめるヒューマンドラマ。喪失と罪悪感、そして沈黙の中で揺れる家族の姿を通して、ここで描かれる“普通”とはなんなのか。

『普通の人々』あらすじ
アメリカ郊外で暮らすジャレット家は、長男バックをボート事故で亡くした悲しみを抱えている。生き残った次男・コンラッド(ティモシー・ハットン)は自責の念から心を閉ざし、精神科医・バーガー(ジャド・ハーシュ)のもとに通院を始める。父・カルヴィン(ドナルド・サザーランド)は息子に寄り添おうとするが、母・ベス(メアリー・タイラー・ムーア)は感情を表に出さず、完璧な家庭像を保とうとする。互いを思いながらもすれ違う家族の心は、やがて静かな亀裂となって表面化していく──。

※本稿には、作品の内容および結末・物語の核心が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください

ロバート・レッドフォードが人間に向ける、まなざしの深度

これまで、対人関係で悩みを抱えたことのない人はいるのだろうか。 

私たちは常に他者との境界線に戸惑いながら、生きていくしかない。対人関係の悩みは子供から大人に成長しても、切っても切り離せない重要なイシューだからこそ、時代を問わず、心の葛藤や確執をテーマにした作品は数多くある。その中で、かつての私の個人的な体験を鏡のように映し出し、「わかり合う」ことの複雑さを克明に描いた一作がある。

今回紹介したい映画は、俳優のロバート・レッドフォードが監督を務めた『普通の人々』だ。

そう、タイトルのとおり、そこで描かれるのは特別な人間についてではないからこそ、私たちと無関係ではいられない映画である。鑑賞後は、ロバート・レッドフォードが持つ人間の洞察力の高さに感嘆せざるを得ないだろう。

初めて鑑賞したとき、身体に重く静かな衝撃が居座り続けたのを覚えている。 そして、「これは学校の道徳の授業などで必須で観せるべき作品だ」と思った。人が持つ多面的な表情や、心が変容していくプロセスが、一切の虚飾なくリアルに描かれているからだ。内容ももちろんだが、これが初監督作品であったというロバート・レッドフォードの技量にも驚かされた。

「不在」が浮かび上がらせるもの

物語では、長男の喪失で心にわだかまりを抱えた父、母、次男が、それぞれ「家族」という機能の再生に向かってもがくさまが描かれている。一見、裕福で健全に見えるこの3人だが、その関係性が抱えている問題は、非常に多層的であることがわかる。

兄を亡くした次男・コンラッドの苦悩を家族の問題の帰結として観たとき、きっと兄が亡くなる前から、家族のなかに潜在的な歪みは生じていたのではないかと思う。それは、兄を特別に溺愛していた父母からの愛情の欠如が、彼らの言動から感じられたからだ。兄の死という決定的な出来事は、父母のコンラッドに対する無関心によってできた綻びを広げたに過ぎないように思えてならない。

喪失への向き合い方も、三者三様だ。自罰的な傾向を強め、感情を言語化できずに苦しむコンラッド。息子の顔色を窺うあまり過保護になり、かえって家庭の風通しを悪くしてしまう父・カルヴィン。そして、ショックから逃れるように感情を遮断し、体裁を取り繕うことに固執する母・ベス。

そんな家族全体に「兄の話をしてはいけない」という空気感があり、少しでも兄の名が上がるとその場に緊張が走る。

コンラッドは、父の勧めで精神科医・バーガーのもとへ通うようになる。 居心地が悪そうに貧乏ゆすりをしながらも、彼は「自己抑制がしたい。心配をかけないために。主に父に」と告げる。苦悩から抜け出すために、彼は自分を変えようとしていた。

対照的なのが、母のベスだ。ベスは常に家族や自分の体裁を気にして「理想的な家族の姿」を取り繕っている。あるとき、パーティーでカルヴィンが「コンラッドが精神科に通っている」と話しているのを目撃した彼女は、帰り道で強く叱る。「プライバシーの侵害よ。家族のプライバシー。秘め事よ」と。彼女は心の治療をすること自体、弱さを認める恥ずべきことだと思っているのだろう。

そんな鬱々とした日々のなか、コンラッドは同じ聖歌隊に属すジーニンと仲よくなり、恋心を抱くようになる。バーガー医師だけでなく、彼女にも自らの抱えている痛みを話せたことで、彼は少しずつ変化していき、神経質そうな表情が和らいでいく。

しかし、依然として母との間には見えない壁が立ちはだかる。コンラッドが勇気を出して感情を表現しても、ベスはそれを受け入れることができなかった。

不和の解決の糸口を見つけるべく、カルヴィンはバーガー医師を訪ね、その後、ベスにも受診を勧める。 だが、彼女は「私を変えようとしないで。このままでいいの」と拒んだ。彼女は、家族の中心にある問題と向き合うことを、最後まで拒絶したのである。

物語の終盤、コンラッドはかつての知人の死によってトラウマがよみがえり、パニックに陥る。しかしバーガー医師との対話を経て、ありのままの事実を受け止め、長年彼を縛りつけてきた罪の意識からようやく解放される。そして、コンラッドとカルヴィンは、互いの本心と向き合うことで、信頼関係を再生させていく。

ひとりの人間の喪失が、残された人々にこれほどまでの影響を与える。この映画は「不在」によって、「存在の大きさ」を浮かび上がらせた作品でもあるだろう。

回復か、破綻か。葛藤の果てに

冒頭で「かつての私の個人的な体験を思い出した」と書いたが、まさにコンラッドがたどる道のりに自分の過去と近しい姿を見出した。同時に、感情を遮断するベスの姿にも身に覚えがあった。心や身体が悲しみに耐えきれないと悟ったとき、人はあのように心を閉ざすしかないこともあるからだ。

だからこそ、私も大事なことから逃げずに向き合い、対話ができる人でありたい。この映画は、そんなふうに思わせてくれる力を持っていた。

家族であろうとなかろうと、他人と良好な関係を築くのは非常に難しい。関係性とは、一朝一夕では成し得ない、気の遠くなるような時間の積み重ねだからだ。歯車が噛み合わないのなら、噛み合うように努力をすればいい。そう理屈ではわかっていても、人となりというものはそう簡単には変わらない。変わりたいと願う人がいれば、変わることを拒む人もいる。だからこそ、人間関係はこれほどまでに複雑なのだ。家族という集団を壊すのも、あるいは直すのも、結局は「なるようになる」ということなのかもしれない。

カルヴィンはベスとの関係、コンラッドとの関係、そしてベスとコンラッドの関係がよくなるよう、家族の絆をつなぎ止めようと腐心していた。その努力が実を結んだのか、あるいは破綻してたどり着いた境地なのか、ラストカットで映るふたりの間には、朗らかで、清らかな空気が流れ始めていた。 

その光景は、葛藤の果てにしかたどり着けない、新たな希望に見えた。

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石野理子

(いしの・りこ)2000年10月29日生まれ。広島県出身。2014年、アイドルグループ・アイドルネッサンスのメンバーとして活動スタート。2018年、同グループ解散後、バンド・赤い公園のボーカリストに就任。2021年に解散。2023年よりソロ活動を開始し、8月に、バンド・Aooo(アウー)を結成。また..