「あのときの私と、あなたを救ってあげたい」──そう語るのは、歌手の和田彩花。15歳から24歳まで、女性アイドルグループのメンバーとして活動していた。
本連載では、和田彩花が毎月異なるテーマでエッセイを執筆。自身がアイドルとして活動するなかで、日常生活で気になった些細なことから、大きな違和感を覚えたことまで、“アイドル”ならではの問題意識をあぶり出す。
今回は、アイドル時代から夢見ていたフランス留学が叶ったあとの話。異国の地で彼女が手にした新たな価値観とは。
目次
誰の目も気にせず、自由な時間を過ごしたかった
15歳でデビューしてから、いや、長期休暇の楽しみがなくなった小学生のころから、いつか自由な時間を過ごしたいと思っていた。
ちょっとわかりにくいたとえ話。仕事の移動の車から見える外の景色は、同じ現実の世界なのか信じ難かった。どうやって人は自由に街を歩くことができるのか、理解ができなかった。

みなさんからしたら、私の言っていることのほうが理解できないだろう。でも、本当に誰の目も気にせず(不特定多数の他人・ファン・会社からの眼差しと感じていたもの、または芸能人であるという自意識を気にせず)生活するなんてことは可能なのだろうか?と。
そんなことを考えてしまうほど、私の頭の中には良いことと悪いことがはっきりと定められており、良いことの範囲でしか行動できていなかった。
ダンスレッスンに行きたいと会社に伝えると、そこに男性がいたらどうするの?と言われたのを思い出す。私の興味関心や向上心を適当な理由であきらめるのが嫌だったので、内緒でフランス語教室に通い始めたのを思い出す。
もちろん、フランス公演で自慢気にフランス語で自己紹介したら、「誰かに教わってるでしょう?」なんてバレてしまったけど。
やりたいことを適当にやってきた人間でも、この不自由をどうにかしたいという気持ちは消えなかった。
フランス生活を夢見ることは、現実の苦しみから解放されること
15歳で美術の世界に出会って、美術の世界にどっぷり浸かっていった私は、いつからかフランス留学を夢見た。

アイドルがやりたかったのか、いつかフランスに行くためにアイドル活動をしているのか、もはや目的は曖昧になっていたけど、今すぐこの活動を辞めたところでどうにかなる問題でもなかったし、グループを辞めることは身勝手な行為でもあるといつからか思っていたので、今やるべきことを然るべきタイミングまでやったら行こう、と心で決めていた。
フランス行きのための貯金もコツコツと貯めた。
特に好きだった19世紀のフランス絵画を通して、フランスやパリのさまざまな景色を見た。パリのサン=ラザール駅、ポン・ヌフ橋、ゴッホとセザンヌを通して知った南仏、モネが描いたノルマンディー地方。
大学の友達が長期休暇の旅行でヨーロッパへ行くと、お留守番な私にお土産を買ってきて、たくさん写真を見せてくれた。

イタリアでは、コンビニ並みにジェラート屋さんがあるとか、日本に似た景色があったとか、湿気はないけど日差しが強いとか、ヨーロッパの情報はどんどん私のもとに溜まった。
うつがつらいときは、フランス語の勉強がストレス解消になった。日本語ではあまりに生きづらさでいっぱいだった私にとって、新しい言語を学ぶことは新しい自分を獲得していくかのようだった。
うつとともに過ごす時間が多かった20代の私にとって、フランスでの生活を夢見ることは現実の苦しみから解放されることでもあった。
どこかへ消えたい、すべてを投げ出しフランスで一から人生を始めようか、そんなふうに夢見た場所だった。
フランスで初めて得た「私のための時間」
大学院を修了し、コロナ禍でタイミングを見計らって、フランスへ旅立った。
怖さはなかった。まだ見ぬ広い世界を目にするんだって、そういう気持ちでいっぱいだった。
飛行機が飛び立って、東京を見下ろしたとき「やっと逃れられた。でも、帰ったら音楽をちゃんとやろう」、そう思った。

フランスのおじいちゃん、おばあちゃんの家で間借りして、1年ほど過ごした。
おばあちゃんは、なんでもかんでもはっきり言ってきた。私が接した最初の“生きたフランス文化”だった。
語学学校へ行くとき、おばあちゃんはいつも「Tu t’en vas?」(出かけるの?)って声をかけてくれた。何度考えてもはっきりした意味がわからなくて、いつも適当に返事して家を出た。
単語はよく知ってるのに、意味が理解できなかった。この「s’en aller」(どこかに行く)の使い方をはっきりと理解したのは、フランス生活の終わりかけの1年後だった。
ネットを開けばフランスのニュースや広告が流れて、聞こえる・使う言葉も変わり、日本語の情報はほとんど入ってこなくなった。
環境に適応しやすいのか、フランス滞在時は日本語のコンテンツをほとんど開かずに生きた。日本から持っていった日本語で書かれたフランス語の文法書も開くことがなかった。
そんな環境下で、私のための私の時間を簡単に作り直していった。誰からの(自分含めて)監視の眼差しも感じずに。初めて友達とたくさん遊んで、おいしいものを食べて、夜まで飲んだ。
美術館にいても仕事の時間を気にして滞在する必要もないし、アイドルをやってたことを自分から話したのも、ワインを飲む人たちの姿に憧れてアルコールを摂取し始めたのも、ピアスを開けたのも、旅行のために授業を休むのも、アジア人の親友ができたのも、ひとりで海外を旅するのも、体調が悪いときは休むことも、電車や飛行機が2時間くらい遅れるのがへっちゃらになったのも、どこでも自分の思ってることをまず最初に言うのも、すべてフランスで始めたことだった。

唯一悩みの種となったのは、歌詞を書けなくなったこと。すべての感覚をフランスに適応させてしまったせいか、そのときの私には出したい言葉も伝えたいメッセージもなかった。
新しい環境での小さな発見はたくさんあるけど、自分の視点を獲得するには時間が必要だったみたい。書けなくなったので、いったん歌詞を書くのもやめた。
フランスで出会った、アジア出身の友達
フランスでは友達に恵まれた。人生で大切にしたい友達が何人もできた。
日本、中国、韓国、ベトナムの友達がいつも一緒にいてくれた。今でも恋しくて、会いたくて仕方ない友達。大好きな人たちに恵まれて、私はアジア、日本への眼差しが変わった。
フランスと日本はお互いの文化を愛し合っているなと思うことばかりだし、とても素晴らしいことなのだけど、私の隣にはいつもほかのアジアの国出身の友達がいたから、母国の話になるとなんだか寂しく感じることもあった。
それは、西洋からアジアを見る眼差しで感じることもあったけど、同じくらい日本からアジアを見る眼差しでも感じた。
偶然生まれて育った母国を誇らしく思う気持ちと、他国を見下すような感情を同じように持っている人もいて、それは違うなって思った。
もちろん、そうじゃない人もいるけど、ナチュラルにそういう態度を取る私と同じ国出身の人の数は、思ったよりも多かった。
嫌な出来事ももちろんあったけど、そんな感情に支配される隙もないくらいに、アジアの友達と過ごした時間がいつでも私を照らしてくれる。

みんなでクリスマスマーケットに行ったり、昼ご飯を持ち寄ってパーティーしたり、お互いの母国語を交換して大笑いしたり、ああ、大好きな時間だった。
帰国や居残る人との別れは本当につらくて、涙が出た。普段、泣かないのに。
帰国後に意識した「日本社会の差別的な側面」
それから、フランスでは、台湾有事のニュースばかり流れてくるのに嫌気が差した。
フランスから10時間以上もかかる場所でのことを、どれくらいの人が本気で気にかけているのだろう? 大きな国に住む人たちが不安を煽っているようにしか見えなかった。
しかし、日本に帰ってきても、状況は変わらなかった。隣にいる私たちが一番役に立つことをどう真剣に考えているのかと、いつも私は怒っていた。
ずっとそう感じ続けた1年半を経て、その出来事をすぐに歌詞にした(LOLOET「SOEUR」にそれを書いた)。
私は、大好きなフランス文化を吸収し、さまざまな規範やルールで凝り固まった頭を解放していきながら、西欧とはどんな社会か、自分たちの育った東洋とはなんなのか、東洋の中で私はどう人と接することが大切か、そういうことを考えた。

フランスで獲得した視点は、帰国後、日本社会の差別的な側面をより浮き彫りにさせることになった。
「良いところも悪いところもある」そういう言葉を聞くたびに深くうなずいたし、ひと言で済ませられることでもないと同時に思った。
なのに、人は簡単に「フランス人は〜」とだいたいポジティブなことを話し、「中国人は〜」とだいたいネガティブなことを話し始める。そのたびに、私は中華圏の友達のことを思い浮かべる。
「république」の理念が、私に与えたもの
文化の見方がわかるようになってきたかもと思えた瞬間は、フランスから帰ってきてすぐに行った台湾旅行のときだった。
フランス滞在を経験する前から台湾に魅了されていたけど、その何倍も深く台湾を愛することができるようになった。

エレベーターは必要とする人が最優先であること、困ったときはすぐに声をかけ合うこと、思ったことはすぐ言うこと、カラフルな台湾であることが共通の理念となりつつあること、街中のベンチで大音量でラジオを聴いている人がいること。
人間の温かさと、時に適当な台湾を、美しい国だと深く感銘してしまった。
初めて台湾に行ったときは「日本に似てるな」と思った。渡仏前の私の異文化の発見の仕方は、これくらい浅かった。
1年半フランスで浴び続けた「république」(共和国)の理念は、私により頑丈な優しさを学ばせてくれた。
台湾で使われている中国語を学び始めたし、いつか数カ月ひとりで台湾に滞在するのがちょっとした目標だ。

近くに支えてくれる人がいたとしても、ひとりで現地の壁にぶつかって、へこたれて、立ち直って、素晴らしい文化に魅了されて、石ころにつまずく時間を大切にしたいし、そうやって私の力と眼差しを強くする経験を、台湾でも積みたいなってまた夢見てる。
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