碇シンジの“父殺し”は?
碇ゲンドウというキャラクターは、ある意味で星一徹と近しい「切断の論理」を前面に出したキャラクターとして、シンジの前に現れる。「エヴァのパイロットとして使えるものだけがよい子供」というわけだ。しかもテレビシリーズや、『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』で描かれたシンジが自己を確立する過程では、“父殺し”は重要な要素ではなかった。ところが『シン・エヴァ』では、ゲンドウとシンジの関係性が、物語の重要な要素として取り上げられているのだ。

そこで改めてシンジとゲンドウの描かれ方を見てみると、『巨人の星』や『ガンダム』の父子関係よりも、『Vガンダム』のウッソとハンゲルグの関係性のほうが近く見えるのだ。どちらも、「切断の原理」だけが体に染みついて、かつては持っていたはずの「包含の原理」を忘れてしまった父親、そして、そんな父親に対して、恐れや反発心そして愛情を持て余して空回りをする息子、という構図なのである。ただし大きく違うのは、『シン・エヴァ』のシンジは、はっきりと“父殺し”を行ってみせる点だ。

ゲンドウという男は、「切断の原理」を生きているように見えるが、それはペルソナに過ぎない。テレビシリーズのときから一貫してゲンドウの本質は、ユイが体現する「包含の原理」を求める“子供”である。一方で、ユイはシリーズ全体を通じて「包含の原理」の頂点に立つ存在であり、つまり実質的にユイはゲンドウの“母”なのである。だからゲンドウはユイを失ったとき、うまく母子分離ができていれば“大人”になれたかもしれない。だがそうはならなかった。
大人になるためには、なんらかのことを断念しなくてはならぬときがある。単純なあきらめは個人の成長を阻むものとなるだけだが、人間という存在は、自分の限界を知る必要がある時がある。これは真に残念なことだが仕方がない。単純なあきらめと、大人になるための断念との差は、後者の場合、深い自己肯定感によって支えられている、ということであろう。
岩波現代文庫『<子どもとファンタジー>コレクションV 大人になることのむずかしさ』河合隼雄 著/河合俊雄 編

確かに作中では何度もゲンドウの自己肯定の低さが語られる。そんなゲンドウだったから、ユイがすべてであり、断念をすることができなかったのではないか。そしてこの自己肯定感の低さを隠すための仮面こそが、「切断の原理」だったのだろう。もしかすると「切断の原理」を行使している間、ゲンドウは“大人の男”になったような心持ちだったかもしれない。
ゲンドウはフィクションの中の人物として極端に描かれているが、誰しもゲンドウのような「大人になったふり」をしている部分はあるだろう。そしてしばしば幼い子供は、子供であるがゆえに、「大人になったふり」という欺瞞を当人に突きつけてくる。
筆者自身にしても、子供が生まれてから「もうちょっと自分は子供好きだと思っていたのにな」と思うことがしばしばあった(ある)。もちろんゲンドウのように子供から逃げはしないが、だからといってゲンドウを笑ったり、哀れんだりするなんて単純なこともできない。ゲンドウは、そういう「自分の中の父親になったふり」の部分をつついてくる刃物のようなキャラクターとして見えた。
ではシンジはそんなゲンドウに対してどのように“父殺し”をするのか。ネタバレを避けて曖昧に書くが、それはとても直接的に描かれている。自力で自己を確立したシンジは、あるものをゲンドウに渡す。もうそれが自分に不要なものであると示すことで、自分は父親とは異なる一個の人間であるという宣言が成立し、そこに“父殺し”が完成するのである。
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