志村けんと岡村隆史——「アイーン」をめぐるふたりの絆(ラリー遠田)


アイーンがつないだ志村と岡村の絆

「アイーン」は志村という芸人のキャリアにおいても重要な役目を果たすことになった。というのも、岡村が積極的に「アイーン」をやり始めた90年代中盤は、志村の人気に陰りが見えた時代だったからだ。

1996年ごろ、世間で突然「志村けん死亡説」が流れたことがあった。「栃木県の県立がんセンターでがんで亡くなった」「四十九日が過ぎるまで遺族の意向で伏せられている」といった妙にディティールがはっきりした噂話が広まり、テレビ局や新聞社にまで問い合わせが殺到した。最終的には、事態を収束させるために本人自らワイドショーに出演して、健在をアピールすることになった。

一説によると、世田谷区の小学生の間でまことしやかに囁かれていた噂話が、彼らの保護者を通して大人の間でも広まり、いつの間にか騒動が全国レベルに拡大していったのだという。

根も葉もないバカバカしい噂だが、広まったのにはそれなりの理由があった。そのころ、志村はちょっとした低迷期を迎えていたのだ。フジテレビでは『志村けんのだいじょうぶだぁ』以来、ゴールデンタイムで志村の冠番組が何度かタイトルを変えてつづいていた。ところが、1996年にはそれが終了し、時間帯を深夜に移すことになっていた。

志村はもともと自分とドリフの冠番組以外にはほとんど出ていなかったため、これによって一般的な小学生が志村をテレビで見る機会がほとんどなくなってしまった。死亡説が出てきた背景には「そういえば最近、志村ってテレビに出ていないよな」という彼らの素朴な実感があった。

私の見立てでは、そんな志村を窮地から救ったのが「アイーン」だった。岡村がこれを流行らせたことで、時代遅れと見られていた志村の笑いにスポットが当たり、志村は「今をときめくナイナイの岡村が心からリスペクトする芸人」として、新しい世代の若者にも認知されるようになった。ここで志村は持ち直し、その後は『天才!志村どうぶつ園』などのコント以外のバラエティ番組にも出るようになり、万人に愛されるお笑いタレントとしての地位を不動のものにした。

アイーンがつないだ志村と岡村の絆を知っていれば、先日放送された『ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン』で、岡村があれほど真剣に志村のことを語っていた理由がわかる。志村は「2代目志村けんは誰?」という質問に対して、決まって岡村の名前を挙げていた。志村から岡村へ。アイーンの遺伝子は受け継がれていく。



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ラリー遠田

(らりー・とおだ)1979年、愛知県名古屋市生まれ。東京大学文学部卒業。テレビ番組制作会社勤務を経て、作家・ライター、お笑い評論家に。テレビ・お笑いに関する取材、執筆、イベント主催など多岐にわたる活動を行っている。『教養としての平成お笑い史』(ディスカヴァー携書)、『とんねるずと「めちゃイケ」の終わ..

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