39歳で不妊治療を始め、ついに妊娠。待っていたのは父の涙と酒好きの旦那にキレる日々
ピン芸人・本日は晴天なりによる連載「バツイチアラフォーの幸せだけじゃない日常」。
2024年9月1日に出産したことを発表した、本日は晴天なり。前回、前々回と39歳から始めた不妊治療でのつらい日々を綴ってきたが、今回は無事にクリニックを卒業したときの喜びと、その先に待っていた不安な日々を綴る。
【前回記事はこちら】終わりの見えない不妊治療。想像を超えたつらさの中で私を支えてくれた言葉
人生4回目の移植
不妊治療を始めて2度目のクリスマス。3度の流産を経験した私は、人生で4回目の移植をした。
今回は妊娠に関する有名なジンクスを片っ端から行うことにした。移植前には、食べると妊娠するというパイナップルを食べ、飲むと妊娠するというホットミルクを飲み、移植後にも、食べると妊娠するというマックのポテトと渡り蟹のパスタを食べた。これを入れたら妊娠するというアプリも入れた。根拠のないジンクスばかりだが、逆にこれでダメなら全部やらなくていいことを証明できる。
そうして迎えた年末の判定日。3度目の正直を通り越して、4度目の正直なんだからさすがにいけるっしょ!と気合いが入っていたが、妊娠継続率は5.7%だった。
ガッカリした。奇跡は起きないんだ、私には。と、ほぼあきらめた。すでに次に向けての治療スケジュールを考えたりと、気持ちを切り替える日々。お互い「子供が欲しいね」と言って結婚したのに、旦那を父にしてあげられなかったら……と罪悪感に押しつぶされていた。
そんな虚しさを抱えながら実家へ帰省。実家で過ごす間は、母の根拠のない「前向きでいよう」とか「大丈夫だよ、信じてあげようよ」という精神論に腹が立っていた。励ましているつもりかもしれないが、希望を持ってダメだったときの絶望のほうがキツい。これまでさんざん思い知らされているというのに。医学的に考えて無理なんだよ!数字を見ろよ!5.7%だぞ!と、叫びたい気持ちを抑える。
メンタルは完全にダークモード。というか、不妊治療を始めてから「どうせダメなんだ」と思うことがデフォルトになっていた。
また、期待と絶望を繰り返す
年が明けてすぐクリニックへ。もう覚悟はできていたが、診察室に入る前にふと考えた。2回連続して流産が起こる確率は4.2%とされている。私はその確率を起こした過去があるんだから、5.7%でも信じていいのでは?
結果、妊娠継続率は80%を超えていた。うれしすぎてスキップしたいくらいだった!
あきらめていた命がつながった。あきらめていて、ごめん!!!と、自分のネガティブ思考を反省。実家に帰ったとき、妊婦は控えたほうがいいと言われている寿司も食べようとしちゃったし、親戚の子供とまあまあな勢いでサッカーしちゃった!
今回は新しいバイトを始めてみたり、できるだけ自分は妊娠してるんだということを考えないようにした。もちろん完全に忘れることはできないが、これまであんなに長く感じていた次のクリニックまでの日々があっという間に過ぎた。
その後の診察でも、無事に心拍も確認でき、不妊クリニックの卒業が近づく。急に怖くなってきた。期待も絶望もせず、心を無にするように過ごしてきたけど、私は心拍確認後に2回の流産を経験している。
また「このまま心拍が下がっていきます」と言われるのではないか? 胎児のサイズが大きくなってないのではないか? 4回目ともなると、最初はちんぷんかんぷんだった内診室のモニターに映る数値を見るだけで、ある程度わかってしまうので怖い。
クリニック卒業予定日の1週間前、「すごい端っこに元気にいますよ」と言われ、胸をなで下ろしたのも束の間、「でも、成長がゆっくりな印象がありますね」と言われた。
前回流産したときも同じことを言われたので、再び絶望した。また検索魔になりそうだな……と思いながら、手元ではもう検索していた。同じ境遇で出産までたどり着いた人を探す。一度はあきらめたくせに。希望を探して、もう疲れ果てていた。
ついに手にした卒業証書
そして、順調だったらいよいよ卒業という診察の日。「成長がゆっくりだ」と言われたが、赤ちゃんはきっちり成長していた。
だけど、「赤ちゃんは育ってるけど、ホルモン値が下がってるので念の為もう一度だけ来てください」と言われてしまった。また、安心より不安が勝つ。この一喜一憂、何度繰り返すんだ? 母子手帳をもらう未来になかなかたどり着けない。
卒業が延期になったことを母に報告すると、「まだ不安はあるよね、でもお腹に伝わるとよくないから、前向きに大丈夫って思うのもいいんじゃない?」と、不安になることを許してくれない。通常のメンタルで聞いたら優しい言葉をかけてもらったと思えるだろう。だけど楽観的に考えられなかったこのときの私は、母の言葉に苦しんだ。何が大丈夫? お腹に伝わる? どこの迷信? 母が悪いとは思わないが、そういう精神状態だったのだ。
そんなスーパーナーバス状態で迎えた翌週。採血から1時間以上待たされるのは異例なので、採血結果に異常があったのかと思ったり、前日に推しのライブに行ったことで急変してたらどうしよう……と、ますます不安に。
結果、下がっていたホルモン値も戻り、赤ちゃんも無事だった。
浮かれたら嫌なことが起きる気がして、ずっと浮かれずにいたが、旦那と回転寿司に行く約束までしてしまった。生ものは食べられなくても、納豆巻きだけでもいいから寿司を食べたいと思うほどには浮かれていた。
ついに、卒業証書(という名の注意事項)をいただき、クリニックを卒業。不妊クリニックの卒業まで、治療期間は約1年半。私の場合は、タイミング療法、人口受精等はすっ飛ばして、最初から体外受精、2回目から顕微鏡受精とスピード感を持って進んだ。何年も治療している人からしたら「はいはい、笑わせるな」と思うかもしれないけど、私たちにとってはとても長かった。
クリニックを卒業したその日のうちに夫婦で母子手帳をもらいに行った。妄想で終わるのかと思っていた母子手帳をもらう未来にたどり着いた。
保健センターで20分ほど説明を聞く。母子手帳とともに恐ろしい量の冊子を受け取る。「時間があるときに目を通しておいてください」史上、一番の量だ。こんなことで萎えてたら子育てできないぞ!と、もうひとりの自分が叱ってくる。
帰り際、保健センターの前でピースをして記念写真を撮ったが、こんなに浮かれていたら産まれるまでに何か悪いことが起きるんじゃないかと怯えてしまう。
家族には母子手帳を持ってピースしている写真を送り、無事に妊娠したことを知らせた。父からは「大事にな」とひと言だけ返信が来たが、母から「お父さん泣いてたよ」と連絡が来て、私も泣いた。
義両親は旦那に対して「妻をとにかく労わって、大切にしてあげて」としつこく言ってきたらしい。
酒好きの旦那にキレる日々
ここからの期間も不安は尽きなかった。クリニック卒業から1週間後、旦那がインフルエンザになってしまい、あり得ないほどブチギレ、説教をした。私は昔から同居人がインフルにかかったら第一声で「お大事に」でなはく「うつさないでね」と言い放つような薄情な人間なのだが、今回はわけが違う。
妻が妊娠中にもかかわらず、ひとりで飲みに行き、その時点で体調が悪いとわかりつつ、翌日も飲みに行き、まんまと感染してきたのだ。妊娠初期の体調がどれだけ大切か、ずっと伝えてきたのに! もし、うつされても妊娠中に服用できる薬は限られているのに!!
家の中でできる限りの隔離をし、目の前が霧で霞むほど加湿した。最低限の看病をしていると「隔離さ寂しい、近くに行きたい」と弱音を吐く旦那。誰のせいだよとまたブチギレる私。お前が招いた事態だろ!
私の気合いでなんとか感染は免れたが、産まれる直前まで、旦那の酒好きのせいで何度かブチギレることになった。
子供がお腹にいるという実感はずっと湧かなかった。昔は漠然と“妊婦=幸せの象徴”なのかと思っていたが、全然そんなことはない。今回の妊娠について、私は「産めるところまでたどり着けた」という意識が強く、友人に「妊娠したとき、うれしかった?」なんて聞かれたが、ずっとうれしさより不安のほうが大勝ちしていた。
体の中に人間が???マジで???ってか、よく考えると股から人間が出てくるってどういう状況??みんな当たり前に受け入れすぎじゃない?と、不安と希望の中でうろたえつつも、私は人生で一番長く感じる10カ月を過ごした。