『流浪の月』が描く“当事者と非当事者の壁”。「事実と真実は違う」という言葉が持つ意味
『2020年本屋大賞』に輝いた凪良ゆうの小説『流浪(るろう)の月』(東京創元社)が、広瀬すず&松坂桃李のW主演、李相日監督によって映画化され、5月13日に封切られる。
ライターの折田侑駿は、本作を「当事者のみが知る“真実”の尊さ」が描かれていると評する。映画を中心に、『流浪の月』という作品が持つ深遠なテーマに迫る。
※この記事は映画『流浪の月』の内容を詳述しております。あらじめご了承ください。
目次
ベストセラー小説を日本映画界屈指の監督&キャストが映画化
『悪人』(2010年)や『怒り』(2016年)の李相日監督による待望の最新作『流浪の月』。広瀬すずと松坂桃李を主演に迎えた本作は、『2020年本屋大賞』を受賞した凪良ゆうの小説を映画化したもの。ひと組の男女の、そして、このふたりにしかわからない、特別な関係を描き出している。
『本屋大賞』とは、全国の書店員の投票によってノミネート作から受賞作までが決まる文学賞。過去1年の間に出版された本が対象で、書店員自身が実際に読んでみて「おもしろい」「広く読まれてほしい」と思ったものに投票する仕組みだ。つまり『本屋大賞』を受賞した作品というのは、“本好き”や“選書のプロ”たちに選ばれた満足度の高いものだということ。イコール、“幅広く支持される本”なのだ。実際、本書は累計発行部数80万部超えのベストセラーとなっている。
そんな話題作を、映画として新たに立ち上げたのが李監督。広瀬とは『怒り』以来のタッグとなり、松坂とはこれが初顔合わせだ。朝ドラ主演やNODA・MAP作品にてヒロインを務めるなど確実に飛躍をつづける広瀬と、若手エリート官僚からアイドルオタク、裏社会とのつながりを持つ型破りな刑事までも演じ分ける松坂。李監督を筆頭にこのふたりが並んだ座組みというのは、原作未読の方でも期待せずにはいられぬものだろう。
読者それぞれの中に文字情報から立ち上がった登場人物の姿があったのだろうが、ヒロインである家内更紗(かない・さらさ)も、その相手である佐伯文(さえき・ふみ)も、この映画化によって唯一の肉体と声を持ち、実体を得ている。
李監督の過去作をぱっと思い出してもらえれば想像がつくと思うが、本作も気軽に観られる作品ではない。しかし、観れば確実に、観客個々の中にある水面に波紋を広げられることになるだろう。
力強い筆致で描かれる“当事者と非当事者の壁”
日々、さまざまな問題が世に出てくる。新たに生じるものだけでなく、今まで隠されていたものが白日の下に晒されている。世界規模で見てもそうだが、日本だけにフォーカスしてみても状況に変わりはない。特に映画界ではそれが顕著だ。許し難いハラスメント問題が次々と露呈。SNSのタイムラインはこれらに対する声で埋まり、胸が痛くなる。
そして、これらの問題に対する声を目にするにつけ、ある種の危機感を抱かずにはいられない。周囲の者たち(非当事者)の声があまりにも大きくなることで、当事者である被害者の声がかき消されてしまわないか。加害者の声が潰されてしまわないだろうか。私たちは当事者の声に、本当に耳を傾けられているのだろうか?
『流浪の月』で描かれるのは、15年前に「女児誘拐事件」の“被害者”とされた更紗と、“加害者”とされた文の関係だ。ある日の夕方、伯母の家での生活を苦に感じていた10歳の更紗が公園のベンチで雨に打たれながら本を読んでいたところ、19歳の文に「うち、来る?」と声をかけられる。
それからふたりは互いに影響を与え合いながら、文の家で2カ月の時を過ごす。自由な時間を謳歌する更紗と文。しかし、そんなふたりをよそに世間はこれを「誘拐事件」だと騒ぎ立てる。やがて15年の時を経たふたりは再会し、寄り添い合うが、世間はこれを認めない。“何も知らない者たち”が、である。
更紗も文も孤独だ。そんなふたりが年齢や性差を超えた精神的な結びつきを持ち、束の間の安らぎを得る。だが、世間はそんなことを知らない。傍から見れば更紗と文は、“年の離れた男女”でしかないのだ。
いかがわしい想像を膨らませる者がいても不思議ではない。だけど、ふたりの間にあったのは、血でもなければ肉体でもなく、精神的なつながりなのである。この当事者の視点と非当事者の視点の大きな相違という壁が、本作では力強い筆致で描かれている。
「事実と真実は違う」という言葉が持つ意味
本作に描かれている当事者性の問題は、私たちの実社会の問題と地つづきだ。当事者の声よりも、非当事者たち総数の声のほうがやはりどうしても大きくなる。しかし、更紗と文は被害者でも加害者でもない。共に過ごした2カ月が世間にとって“事件”であっても、ふたりにとっては“かけがえのない時間”なのだ。
当事者性を欠いた者たちが、加害者とされる見ず知らずの者を断罪までしてしまう昨今。この状況は目に余るものがある。はっきり言って恐怖すら覚える。世はSNSによる“1億総評論家時代”であり、誰もが何かについて論じることが許されている。しかし、そこでの誤認により“加害者扱いされる被害者”を生み出している事実や、より被害者を傷つけてしまう実情があることにも目を向けるべきだ。
「火のない所に煙は立たない」とはよく言うが、それが“炎上”に発展したとき、そこには薪を焚べてガソリンを撒く者たちの存在が必ずある。
世間から“被害者”と“加害者”というレッテルを貼られた更紗と文は、重い十字架を背負わされ、息を潜めて生きてきた。ふたりのような特殊な関係性でなくとも、同じようなかたちで世間に怯えて生きる者は存在する。二次被害が生まれないように、当事者を支えたいと強く思う非当事者こそ、冷静でいるべきだ。
本作には「事実と真実は違う」という印象的な言葉が登場する。この物語のテーマともいえるものだ。ある事柄に対する立場によって“事実”は異なるが、“真実”は当事者の中にしか存在し得ない唯一のものなのである。
ふたりをつなぐ“水”というモチーフ
『流浪の月』は、雨降りのシーンが印象的な映画だ。更紗と文は雨の中で出会い、15年後にようやく言葉を交わすことができたときも、やはり雨が降っている。もちろん、原作でもふたりが初めて出会う場面では雨が降っていて、だからこそ文は雨に濡れる更紗に「うち、来る?」と声をかける。これが映像で観るとより印象に残るのだ。雨は次第に強くなり、すぐそばの川は濁流に。カメラはこれらをつぶさに捉えている。孤独なふたりの心を表象しているのだろう。原作の文字情報から想像していたものよりも遥かに激しいのだ。
更紗と文が雨に降られるさまは、“雨を共有している”ともいえる。孤独な男女は“雨”があるからこそ、“雨”を介することで、関係を持つことになるのだ。いや、もっといえばふたりの間にあるのは“水”である。映画化に際して、“雨”をはじめとする“水”のモチーフが強調されているのだ。
再会の場面、文の働くカフェを訪れた更紗は、彼の細い手によって差し出されたグラスを見やる。画面にはっきりと映し出されるのは、15年の時を経た文の顔よりも先に、彼の手とグラス、そして、その中で揺れる“水”なのだ。さらに、10歳の更紗と19歳の文が警察によって引き裂かれる場所は、原作とは異なり湖になっている。この原作からの最大の改変点が、“水”というモチーフを最も観客に印象づけるはずである。
更紗と文はそれぞれが抱えるトラウマや病によって、大人になっても他者とつながることが難しい。ふたりは精神的につながるわけだが、これを表象し、可視化させているのが“水”なのである。
読んでから観るか、観てから読むか
今、あちこちで善悪の価値観が揺らいでいる。いや、揺らぎを感じられれば、まだいいのかもしれない。むしろ、揺らがないほうが危険だとさえ思う。世間の注目を集めることが起きたとき、非当事者が我がことのように関係者を断罪する時代である。映画『流浪の月』は、そんな時代に一石を投じているのではないだろうか。
思い返せば李監督は、この“善悪の価値観の揺らぎ”を描いてきた存在だ。『悪人』だって、『怒り』だってそうだろう。立場が変われば、視点を変えれば、善悪の価値観は一転する。当事者のみが知る“真実”の尊さ──本作はこれを最も明確に、そして力強く訴えているわけだ。
私たちは、真摯に揺さぶられるべきだろう。果たして、真の正義とはなんなのか。どこにあるのか。身勝手な憶測で、無関係な他者を断罪していいわけがないのだ。
さて、読んでから観るか、観てから読むか──“原作モノ”の映画を観る際、多くの方にこの迷いがつきまとうことと思う。結論からいうと本作に関しては、“読んでから観る”ことをお勧めしたい。文庫版で350ページほどもある小説の物語が、150分の映画に収められているのだ。当然ながら削られたエピソードは多々あるし、更紗や文の人生の軌跡を垣間見せる描写も、映画では省略されていたりする。
もちろん、想像力を目一杯に働かせながら鑑賞し、そのあとに原作を手にして、各々の中で欠けている部分を補完する楽しみ方もあるだろう。
「記憶は共有する相手がいてこそ強化される」という言葉が原作に登場する。本作が描く実社会と地つづきの深刻な問題について、多くの方とそれぞれの考えを共有したい。
映画『流浪の月』
2022年5月13日(金)全国ロードショー
原作:凪良ゆう「流浪の月」(東京創元社刊)
監督・脚本:李相日
撮影監督:ホン・ギョンピョ
音楽:原摩利彦
出演:広瀬すず、松坂桃李、横浜流星、多部未華子、趣里、三浦貴大、白鳥玉季、増田光桜、内田也哉子、柄本明
製作総指揮:宇野康秀
配給:ギャガ
(c)2022「流浪の月」製作委員会
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【ストーリー】
雨の夕方の公園で、びしょ濡れの10歳の家内更紗に傘をさしかけてくれたのは19歳の大学生・佐伯文。引き取られている伯母の家に帰りたがらない更紗の意を汲み、部屋に入れてくれた文のもとで、更紗はそのまま2カ月を過ごすことになる。が、ほどなく文は更紗の誘拐罪で逮捕されてしまう。それから15年後。“傷物にされた被害女児”とその“加害者”という烙印を背負ったまま、更紗と文は再会する。しかし、更紗のそばには婚約者の亮がいた。一方、文のかたわらにもひとりの女性・谷が寄り添っていて……。
映画『流浪の月』 公式サイト
https://gaga.ne.jp/rurounotsuki/
2020年本屋大賞受賞『流浪の月』
著者:凪良ゆう
レーベル:創元文芸文庫
判型:文庫判
ページ数:356ページ
発売:2022年2月25日
価格:814円(税込)
東京創元社『流浪の月』特設サイト
https://special.tsogen.co.jp/rurounotsuki