趣味は「ゴミと写真を撮る」。好きなものに理由はいらない(モリィ)

2020.10.1
モリィ

文=モリィ 編集=田島太陽


学生時代、何かを好きになることには「明確な理由」がないといけないと刷り込まれていたモリィ、25歳。

ある日、たまたまそこにあったゴミと写真を撮った。インスタグラムに「#ゴミとモリィ」のハッシュタグで投稿しつづけた。そこから見えてきた、何かを好きになる「理由」とは。

『YATSUI FESTIVAL! 2020』での公式キャンペーンガールオーディションで「QJWeb賞」を受賞したモリィの、連載コラム第3弾。


趣味に「理由」は必要か

趣味がない。正確には初対面の人に「趣味は?」と聞かれたときに、自信を持ってこれ!と言える趣味がないのだ。

中学のとき、高校推薦入試やその先の大学入試に向けた圧迫面接の練習で「趣味は音楽鑑賞」と答えた私に、担任は「誰もがやっている事を答えても無趣味だと思われるだけだ」と怒った。「趣味は町清掃のボランティア」「理由は街をきれいにすると気持ちがいいから」と、通信簿の内申点をあげるために必ず参加しなくてはいけなかったゴミ拾いを趣味にすることにした。

あのころ、繰り返し面接や小論文の練習をして、何かを好きになることには「明確な理由」がないといけないと刷り込まれていったように思う。しかし付け焼き刃で作った理由なんて言い訳に過ぎない。

2016年“インスタ映え”が流行りだしたころ、何の気なしに道端に捨ててあった45Lゴミ袋数個と写真を撮った。たまたまそこにゴミがあったから。

ゴミとモリィ
初めて撮ったゴミとの記念写真

人より地面に寝転ぶことに抵抗がないし、写真1枚のために何時間も並んで“映え”を求めるより、絶対どこにでもあるものを“映え”ってことにしときゃ楽だな!くらいの軽い気持ちで始めた。まわりの友人がキラキラした“映え”写真をあげるタイムラインに黙々と「#ゴミとモリィ」のハッシュタグでゴミを投稿しつづけた。不評だった。しかし、自分の中では気に入っていたのだ。

私の宝物は、他人が見たらゴミだった

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#ゴミとモリィ

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そもそも私は昔から物に執着してしまう癖があって、ゴミとゴミではないものの区別が曖昧だ。着古して穴が空いた服も限界まで繊維が壊れて水を吸わなくなったバスタオルも初デートのときの映画の半券も好きな人が奢ってくれたときのレシートも友達がチラシの裏に描いた落書きも小学校のときに使っていたランドセルも全部宝物なのだ。

上京してから8年間、ずっと大切に宝物を詰め込んできたワンルームを、初めて我が家に来たいわゆるミニマリストの友人に「ゴミ部屋」と言われたときは衝撃だった。私にとってはすべてに思い出やエピソードがあるが、他人から見ればただのゴミなのだ。そう思ったとき、街中のゴミに物語が見え始めた。

たとえば原宿であれば、タピオカの容器などカラフルでポップなゴミには初めての竹下通りにはしゃぎ回った中学生の痕跡、渋谷のクラブ街で大量のZIMAとスミノフのビンに踊り疲れた若者の影、地方都市の市区町村で決められた指定ゴミ袋の同じ色で隠したそれぞれの家庭の誰にも言えない秘密。

そして明け方5時ごろの歌舞伎町でホストクラブとキャバクラの、さっきまで店を彩っていたであろうカラフルな風船や人形がたくさんついた大きな花、顔写真のパネルなど大量の販促品に一夜の儚い夢を見る。思いを馳せるたび、ゴミのことがどんどん好きになっていった。

ゴミとモリィ
歌舞伎町のゴミとモリィ

今年の7月より開始されたレジ袋有料化によって以前はタバコや空き缶、ペットボトルのポイ捨てはよく見かけたのが、食べかけのカップラーメンやお菓子の包装紙があちこちに散乱するようになったと感じる。果たしてレジ袋有料化は本当に環境のためになっているのか。放置自転車のカゴがゴミであふれかえるように、廃墟に不法投棄の家具が投げ込まれるように、ゴミに対する人々の意識が低下していってしまうのではないか。何のメッセージ性もなくゴミと写真を撮り始めたはずが、いつの間にか環境問題について考えていた。

意味を持たないことに意味がある

ゴミとモリィ
台湾のゴミとモリィ

しかし、約4年間写真を上げつづけて「ゴミの人」という認知が広がるにつれ、意味を持たせるため他人が納得する言い訳を取りつくろって、趣味だったはずのゴミの写真が「ゴミを撮らなくてはならない」という義務に変化してきた。

そんな中、昨年出演した劇団「地蔵中毒」の『無教訓意味なし演劇vol.11』と題した本公演。本当にずっと意味がなかった。過去10回も公演しているのに、あいも変わらず11回目も意味がなさすぎて終わった瞬間にすべて忘れてしまう内容だった。ただ好きなことを好きなようにやりつづける強さがそこにあって、そしてめちゃくちゃおもしろくてかっこいい。

私はタピオカの写真を投稿するJKとまったく同じ感覚で“映え”としてゴミの写真を上げてきたのだ。私の考えが写真のすべてではなく、見た人が感じた気持ちがすべて正解であり、感じないことも正解であるから写真が意味を持たないことに意味がある。私が死んだあと、後世の人々が勝手に強めのメッセージをつけ足してくれるくらいがちょうどいい。

誰になんと言われようとゴミが好き

ゴミとモリィ
土浦の花火大会のゴミとモリィ

前述の公演中に「なんでも大きい声で言い張ればなんとかなる」というセリフがあった。もう内申点を気にする中学生ではないのだ。担任の先生が納得するいい子ちゃんの回答や確固たる信念なんてなくても好きなものは好き。ただそれだけのシンプルな感情を大きな声で言い切ってしまえばいい。そう思えるようになった。

とにかく私はゴミが好きで、カラフルで大きなわたあめよりも壮大な翼の壁画よりもゴミがよく似合う人間なのだ。無理に意味を持ったりせず、誰になんと言われようとただゴミが好きだから一緒に写真を撮ることが趣味だと言い切ろう。

せっかく10年越しにゴミ(拾いは消えた)を好きになったのだから。

私の趣味は「ゴミと写真を撮る」だ!


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