『子宮』が凄い!女性だけが責任を負わされる妊娠・出産を描く中国大河小説の見事(豊崎由美)

2022.11.6
豊崎由美サムネ

文=豊崎由美 編集=アライユキコ


文芸出版において、今、最も話題になりやすいのは「フェミニズム」と「ジェンダー」。韓国のベストセラー『82年生まれ、キム・ジヨン』の翻訳や、文芸誌の特集企画の成功などで日本での勢いも加速しつづけるなか、書評家・豊崎由美が中国の大河小説『子宮』を熱烈紹介する。


キタカタさんからの電話

今から20数年前のある朝、わたしは1本の電話で目を覚ましました。
「キタカタです」
「はぁ、どちらのキタカタさんでしょうか」
「日本推理作家協会理事長の、キタカタケンゾーです!」
魅惑の低音ボイスから放たれたその名前に、おののいたのは言うまでもありません。なにゆえ、わたしごとき三下ライターに流行作家の北方謙三氏が電話をかけてくるのだ。苦情か? 身に覚えはないけれど、苦情なのか? 怯えるわたしの耳に入ってきたのは、しかし、江戸川乱歩賞のいわゆるひとつの下読み委員をやってほしいという依頼なのでした。
「ご存じのように、この業界には女の評論家が少ないんですよ。ですからね、あなたにも女ならではの感性でこれまでにないような作品を見つけていただきたいんですなっ」
自分はミステリーに関する教養が低いことを理由に、謹んでご辞退申し上げ続けるわたしに、「あなたに断られると、理事長としてのメンツが云々」としつこく受諾を迫る御大。困惑する三下ライター。押し問答で経過していく永遠とも思える時間。ついに放たれる、御大からのキラーフレーズ。
「あなたはご自分のことを雑読だから乱歩賞の下読みとして適切でないとおっしゃいますが、それでいいんですよ。今や、SFもミステリー、時代小説もミステリー、純文学だってミステリーという時代なんですからっ」
すべての小説がミステリーと言い切る御大の勢いに押され、30分間にも及ぶ「やれ」「やらない」の攻防の末、ついに下読み委員を引き受けることになったトヨザキだったのですが、なにゆえ、こんな昔話をしたのかといえば、1990年代はそのくらいミステリーに勢いがあったということが言いたかったんであります。
極端な話、「帯にミステリーと謳えば売れる」とまで言われていたほどで、じゃあ、今、往時のミステリーの勢いに相当するのが何かといえば、売れ行きは別として話題になりやすいのは「フェミニズム」と「ジェンダー」ではないでしょうか。

「フェミニズム」と「ジェンダー」の勢い

2017年、ハリウッドの大物プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインによるセクシャルハラスメントの告発をきっかけに世界的に広まった「#MeToo運動」。同年、川上未映子責任編集で話題になった『早稲田文学増刊 女性号』(筑摩書房)の刊行。18年、韓国でベストセラーになったチョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房 斎藤真理子訳)の翻訳。19年、新編集長に就任した坂上陽子氏による『文藝秋季号 韓国・フェミニズム・日本』(河出書房新社)の文芸誌としては異例の重版出来。以来、現在に至るまで国内外のフェミニズムやジェンダーに関する小説や評論集が多々刊行され続けているのが、現在の出版状況なのです。

『早稲田文学増刊 女性号』早稲田文学会/筑摩書房
『早稲田文学増刊 女性号』早稲田文学会/筑摩書房
『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ/斎藤真理子 訳/筑摩書房
『82年生まれ、キム・ジヨン』チョ・ナムジュ/斎藤真理子 訳/筑摩書房
『文藝2019年秋季号 韓国・フェミニズム・日本』河出書房新社
『文藝2019年秋季号 韓国・フェミニズム・日本』河出書房新社

女性の身体と視線で貫く大河小説『子宮』

というわけで、今月紹介したいのが、帯に「ノーベル文学賞作家・莫言が“大胆不敵な才能”と称する、今もっとも勢いのある女性作家が放つ現代中国フェミニズム巨編」とある、盛 可以(ション・コーイー)の『子宮』(河出書房新社)です。中国湖南省益陽の農村に生まれた初(チュー)家の4世代の女性の生き方を描くことで、中国における100年以上に及ぶ社会の変遷を女性の身体と視線で貫く大河小説になっています。

『子宮』盛 可以/河村昌子 訳/河出書房新社
『子宮』盛 可以/河村昌子 訳/河出書房新社


登場する主要女性キャラクターは以下の通り。
 
戚念慈(チー・ニエンツー)
ひとり息子の初安運(チュー・アンユン)亡き後、ゴッドマザー的存在として初家に君臨。2000年の元日に105歳で大往生を遂げる。
呉愛香(ウー・アイシアン)
初安運の妻で六女(五女は夭折)一男をもうける。末っ子にして待望の男児・初来宝(チュー・ライバオ)を産むと子宮リングを入れた。晩年はアルツハイマー症をわずらい、2017年に亡くなる。
初雲(チュー・ユン)
1965年生まれの長女。若気の至りで、怠け者の上にマザコンの男と結婚し、一男一女を産んだ後、湖南省の政策に従って20歳で卵管結紮手術を受ける。40歳の時に浮気相手と結婚するために卵管開通手術を受けようとするも、ある啓示によって断念し、以降、農村の嫁という立場を振り切って、町で新しい人生を歩み始める。
初月(チュー・ユエ)
1966年生まれの次女。五人姉妹の中で一番の美人だったが、幼い頃に熱湯でやけどを負ったため、〈頭の半分がギョッとするピンク色の禿げになって〉しまった。17歳の時、後に風水士として名を上げ財をなすことになる葬儀屋の王陽冥(ワン・ヤンミン)に見初められて結婚。仲睦まじい夫婦となり、ふたりの息子を授かったのち、やはり卵管結紮の手術を受ける。
初冰(チュー・ビン)
三女(生年が小説中で明らかにされていない)。写真館を営む傷痍軍人と結婚して鎮(村に対して町のような行政区)に移住し、都市戸籍を得る。器量は良くないものの、明るく人好きがする気質によって思わぬ商才を発揮することになり、夫の写真館を大きくしたばかりか、広州でバッグの店を開くまでになる。その広州で好きになった男のため、男児を出産した後に装着した子宮リングをはずそうとして失敗し、子宮を摘出するはめになる。
初雪(チュー・シュエ)
1970年生まれの四女。農村を離れ上海に行き、自力で学業を修めた後、大学で教えるまでになる。しかし、33歳の時に妻帯者と愛し合って妊娠。堕胎手術を受けたため、二度と妊娠できない身体になってしまう。その後、2歳年下の財経ニュースの編集長と結婚し、フェミニスト・アーティストとして有名になるものの、夫が若い女性との間に子供を作ってしまい──。
初玉(チュー・ユー)
1975年生まれの六女。北京大学に進学して医師になり、実家と疎遠に。姉たちが受けた子宮リングの装着手術や卵管結紮手術によってトラウマを受け、妊娠・出産に対して深い嫌悪感を抱いて育つ。40歳目前で、同業の医師にして理想の男性・朱皓(ジュー・ハオ)と巡り合うも、ふたりの間には、初玉の父親&祖母と朱皓の両親にまつわるある因縁が横たわっていることを知り──。
初秀(チュー・シウ)
知的障害のある初家の長男・初来宝がもうけた娘。自由奔放明朗快活な性格の持ち主で、16歳の時に妊娠。その一大事をめぐって、彼女の伯母にあたる五姉妹の話し合いが紛糾することになる。
 
以上8人の女性の生涯を軸とした物語の中に、5人姉妹の亭主たちのプロフィールやエピソードを盛り込んでいるんですけど、その語り口が見事なんです。出来事を単純に年次で紹介するのではなく、人物が人物を呼び、エピソードがエピソードを連れてくる式につなげていき、その中で、子宮にだけ負担がかかり、女性だけが責任を負わされる妊娠・出産にまつわるあれこれを手を変え品を変え変奏する。全体的には良くできたロンドのような構成になっているんです。

傍線と付箋がいっぱいに

登場人物一人一人の人生が時に笑いも連れてくる闊達な声で物語られていくので、ページを繰る指が止まらない。そんな読んで楽しめる大河ドラマが、中国政府による「一人っ子政策」をはじめとする計画出産政策に翻弄される女性の身体や性慾、剥奪された地位と権利の問題までも俯瞰。
〈湿った通路を中に向かい、さらに上へ、子宮頸、子宮、卵管と卵巣、そして毎月面倒を起こすやんちゃな卵胞を通過して、Uスポットを巡って、後ろへ下へと回ってきて、会陰と肛門に到達する。これらの部位は大量の骨盤底筋と無数のシグナルを伝える神経回路にコントロールされていて、このシステムと比較すると、現代化された国際大都市の高速道路など、まったくリラクゼーション用のお散歩コースにすぎない。〉といった、様々なトーンで描かれる女性の身体についての記述も個性的な上に、盛 可以という小説家は比喩表現も抜群に巧みなんです。
〈一冊の良書に、ただ一人の読者がいて、読みながら傍線を引いていき、最後には傍線でいっぱいにして、箱の底にしまい込み、他人と分かち会いたくないのと似て、初月はまさにそういう傍線でいっぱいにするに値する本だった。〉
そんな引用に値する文章をそこかしこに見つけることができるのが、この大河小説なのです。わたしが持っている『子宮』にも傍線と付箋がいっぱいついているのは言うまでもありません。
……あ! そういえば、この小説、初雪と初玉の人物紹介のところでオチを明かさないように配慮したふたつのエピソードがミステリー仕立てになってる!! 北方謙三御大、あなたの言うとおりなのかもしれません(笑)。


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