「要」と「急」のあいだには、豊かなグラデーションがあるはずなのに

2021.7.23
入江悠_1

文=入江 悠 編集=鈴木 梢


2020年から2021年にかけてのコロナ禍で、たびたび要請されてきた「不要不急の外出自粛」。そもそも「不要不急」とはいったいなんなのか。辞書(デジタル大辞林)には、「する必要もなく、また、急ぐ必要もないこと。とりわけ重要でもない用事など」を意味すると書かれている。

外出自粛要請と同時に、飲食店や映画館の時短営業や休業、コンサートなど人が集まるイベントの中止など、満足な補償もないままあらゆる業界がその活動を制限されてきた。提供する側はもちろんのこと、参加者側も娯楽を制限されてきた。そもそも娯楽は、「とりわけ重要でもない用事」なのだろうか。たとえば1本の映画が、ミュージシャンのライブが、展示された美術作品が、行きつけの飲食店の変わらぬ味や他愛ない会話が、潰れてしまいそうな人間の心を救い、生かすこともあるだろう。

映画監督の入江悠は、ミニシアターの存在に救われたひとりだった。ミニシアターという「逃げ場所」が彼を確かに生かしていた。今は映画の制作や映画館への支援で、誰かにとっての逃げ場所になるかもしれない存在を守る活動をしている。コロナ禍の日々と昔の体験を振り返りながら、「不要不急」について考える。


楽しい時間をありがとうと言えなかった悔しさ

東京の千駄ヶ谷に、よく通っている小さな和食居酒屋がある。
ほぼカウンターだけの狭い店で、ベースボールキャップを被ったおじいさんと、板前さんとおばあちゃんがやっている。キャップのおじいさんは江戸っ子っぽい感じで、何年か通うとしゃべりかけてくれるようになった。
「このあたりじゃウチが一番古くて、最初は地上げ屋ともずいぶん戦ってさ。俺は地方の田舎から十八んときに出てきたんだけど、空手の腕があったからね、ガハハ」
空手で地上げ屋とどう戦ったんだ? てか江戸っ子じゃなかったのか? いろんな疑問が浮かんだけど、それはそれとして、料理はめっぽううまい。食べログでも、千駄ヶ谷といえばこの店みたいな高得点だ。

この店は2020年のコロナ禍の中、ひっそりと閉じた。
お別れを言う時間もなかった。「休業中」の張り紙が、気づけば「閉店」に変わっていたのだ。こういう店は日本全国にたくさんあるんだろう。あのおじいさんとの思い出や、楽しい時間をありがとうと言えなかった悔しさは、今もどうしたらいいのかわからないまま、身体の30cmくらい外側にふわふわしている。

「観られない」と気づかれさえしないミニシアターの映画たち

僕は映画監督の仕事をしている。撮影や編集も仕事のひとつだけど、映画を映画館でお客さんに観てもらうのも仕事だ。その一環として、映画館——とくに「ミニシアター」と呼ばれる小さな映画館——を応援する活動を個人的にしている。
ミニシアターは、飲食店と同じく、去年からのコロナ禍で壊滅的な打撃をこうむっている。映画館では感染症のクラスターが未だ発生していないことや、空気循環のよさについて立証されているにもかかわらず、なぜかずっと休業要請、時短要請の対象にされてきた。

ミニシアターは映画好きの個人が運営しているところが多い。映画が好き過ぎて地元で小さな映画館を作っちゃった、みたいなノリのおじさんもいる。だいたいが最初にギョッとするような借金をしている。個人経営の居酒屋とまったく変わらない。こういったところは大型の映画館に比べて、経営状態はコロナ以前から厳しい。にもかかわらず、国や行政はまるで映画館なんて知らん、とでも言わんばかりにコロナ禍で圧殺してきた。休業補償もじゅうぶんにしない。たぶんミニシアターの存在が眼中にないんだろう。

しかし、ミニシアターはある意味で、日本各地の文化の拠点だ。ミニシアターがなくなったら、世界各国の傑作や良作、またドキュメンタリーなどがその土地では観られなくなってしまう。配信でいいじゃん、と思っても、有名な俳優が出ていない映画やインディーズ作品などは二次利用がされない。永遠に観られる機会が失われるのだ。というか、そもそも「観られない」と気づくことすらできない。メキシコのドラッグ戦争のドキュメンタリーも、ブラジルのヤバい村の映画も、HIPHOPの歴史を伝える発掘ドキュメンタリーも観られなくなる。これを文化的損失と言わずしてなんと言おう。

ここからは個人的な話。
昔、10代後半で半分ひきこもりみたいな生活をしていて、そのころ、ミニシアターは「逃げ場所」だった。大学受験に失敗し、予備校に通おうと思ったけど、足が向くのはレコード屋とミニシアターだけ。埼玉の実家近くにはミニシアターがなく、電車で隣の群馬まで行った。満員電車は嫌だったので、だいたいお昼過ぎ。半ひきこもりでも、なぜかミニシアターには出かけられたのだ。暗い客席は孤独を慰めてくれて、かろうじて社会の一員であることを認めてくれた。演劇みたいな熱さはない。ひんやりとした冷たいイメージ。それが心地よかった。でっかいことをいえば、この「逃げ場所」に人生を救ってもらったといってもいい。

当時の僕は、隕石が地球に落ちてきて人類絶滅すればいい、みたいな物騒なことを思う邪悪な若者だった。『ディープ・インパクト』や『アルマゲドン』みたいな地球規模のパニック映画を観て溜飲を下げていたのだ。そんな邪悪さをかろうじて矯正してくれたのも、ミニシアターという場所だった。いろんな事情を持った人が、純粋に観客としてスクリーンを見つめにきていて、そこでは世俗のアレコレを忘れられる。それぞれいろいろ大変なことはあるけど、映画館の中では平等だし、何者でもない存在になれる(音楽好きな人はライブハウスに、絵画や彫刻が好きな人は美術館に置き換えてもらえば、わかってもらえるはずだ)。

「要」と「急」の線引き


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