サトミツこと佐藤満春。オードリーと共に歩み、日向坂46に号泣する男の、意外な野望とは?

2020.6.6
サトミツこと佐藤満春、ロングインタビュー

文=山本大樹 編集=田島太陽


どきどきキャンプ佐藤満春、通称「サトミツ」。『オードリーのオールナイトニッポン』(ニッポン放送)でたびたび名前が挙がり、アイドルバラエティ『日向坂で会いましょう』(テレビ東京)では号泣事件が話題を呼ぶなど、コアなお笑いファンやアイドルファンの間で注目を集めている。

彼はこれまで芸人兼構成作家という異色のキャリアを歩み、芸能界で地道に結果を残しつづけてきた。オードリーのふたりをはじめ、南海キャンディーズ山里亮太、さらにテレビの裏側を支えるディレクターや放送作家まで、彼に絶大な信頼を寄せる関係者は多い。「自分がヒーローにならなくてもいい」と言うサトミツ独自の仕事論とこれまでの歩みから、謎に包まれた人物像を紐解いていく1万字のロングインタビュー。

どきどきキャンプ

どきどきキャンプ佐藤満春
(さとう・みつはる)/写真右
1978年生まれ、東京都出身。芸人や放送作家としての活躍以外にも、名誉トイレ診断士の資格を持ち、著書に『芸能界No.1トイレマニア佐藤満春のトイレ学』『恥ずかしがらずに便の話をしよう』がある。自身が中心となり結成したバンド、サトミツ&ザ・トイレッツとしても『ホワイト・アルバム』をリリース。

「こうやってインタビューしていただいて本当にありがたいんですけど……。誰かの参考になるような話は全然ないですよ」

サトミツはそんなふうに謙遜して、穏やかに笑った。黒縁メガネにセンター分けという風貌は“お笑い芸人”というよりも、堅実に出世街道を歩んできたビジネスマンのようにも見える。

サトミツこと佐藤満春、42歳。お笑い芸人兼構成作家という二足のわらじを履いて、芸能界で20年のキャリアを重ねてきた。

サトミツこと佐藤満春
取材は5月末、Zoomで行われた

現在、テレビでは『有吉ゼミ』や『news every.』(共に日本テレビ)でのお掃除ロケ、ラジオパーソナリティーとしては『佐藤満春のジャマしないラジオ』(InterFM)、『佐藤満春in休憩室』(ラジオ日本)のレギュラー番組が2本。さらに構成作家として『スッキリ』『ヒルナンデス!』(共に日本テレビ)、『オードリーのオールナイトニッポン』、『ニャンちゅう!宇宙!放送チュー!』(Eテレ)など数多くの番組に携わっている。決して派手なキャリアを歩んできたわけではないが、作家として、芸人として、さまざまなジャンルの現場で地道に結果を残してきた。

「本当にありがたいことですよね。呼んでいただいた番組のために自分がお手伝いできることがあれば、芸人でも作家でも、それこそADでも、肩書きはなんでもいいんですよ。そもそも僕は、自分がテレビに出る必要はないと思っているんで」

「テレビに出たくない」と打ち明けた若手時代

中学生のころに聴いていた『伊集院光のOh!デカナイト』(ニッポン放送)の影響で芸人を志したサトミツが「どきどきキャンプ」を結成したのは2001年。当初はインディーズで単独ライブや路上ライブを重ね、2005年に現在の事務所であるケイダッシュステージに所属した。そこから下積みを経て、2008年『爆笑レッドカーペット』(フジテレビ)で、相方の岸学がジャック・バウアーに扮した『24-TWENTY FOUR-』のネタでブレイクを果たす。さまざまなネタ番組やバラエティ番組に呼ばれるようになり、「やっとバイトを辞めることができた」とサトミツは当時を懐かしむように語る。

若きころのどきどきキャンプ
若きころのどきどきキャンプ

一時はゴールデンのバラエティ番組のひな壇に収まっていた彼が、今では事もなげに「自分がテレビに出る必要はないと思っている」と語る。芸人としては異色とも言えるそんな考えに辿り着いたのは、若手時代に感じていた苦悩と、ある芸人仲間の言葉がきっかけだった。

「2008年から少しずつテレビに出させてもらったんですけど、『自分が出ないほうが番組が盛り上がるな』と思ってしまうことも多くて。同時期にテレビに出ていたほかの芸人に比べて、実力的にも性格的にも、いわゆる“若手芸人”らしくバラエティで立ち回ることができなかったんです。だから苦しかったんですよね」

事務所に所属したころのどきどきキャンプ
事務所に所属した直後のどきどきキャンプ

まったく結果が残せないまま収録を終えて帰路につく日々に悩んでいたサトミツはある日、マネージャーに「あんまりテレビに出たくないんです」と打ち明けた。

「さすがにマネージャーも頭を抱えていました(笑)。テレビに出たくないって、芸人としては致命的ですよね。でも、おもしろいことが好きだし、おもしろいことには携わっていたい。だから、どこかに自分がハマる場所があるんじゃないかとはずっと思っていたんです。当時、若手芸人としてひな壇などで出演させていただく場所は、ほかの人が輝いたほうがおもしろくなる番組ばかりでした。僕自身が出るべき番組はおそらくここではないし、もしかするとそんな番組はないのかもしれないとすら感じていました」

ただ、そんな挫折の日々のなかでも「おもしろいことがしたい」という思いは消えることがなかった。

「当時は1ミリも求められていなかったけど、自分が持っているクリエイティブな部分や創作意欲も、どこかで求められるタイミングや場所があるはずだと信じていました。だから吐きそうになりながらも、どこに出すわけでもない演劇やコントの台本を延々と書きつづけていたんです」

心に引っかかった、オードリー若林の言葉

バラエティ番組での立ち回りや芸人としてのスキル不足に悩んでいた当時、彼の中である言葉が引っかかっていた。

「『レッドカーペット』に出る前の2005年、『虎の門』(テレビ朝日)という深夜番組で、ネタコーナーの優勝特典として井筒和幸監督の映画評論コーナーに呼んでもらったことがあったんです。そのときに取り上げた映画が『硫黄島からの手紙』で、僕はコメンテーターとして淡々と“吉祥寺の映画館でその映画を観て、40代くらいの男性が食い入るようにスクリーンを眺めていました”みたいな感想をしゃべったんですよ」

サトミツ自身としては、番組から求められていることを自分なりに咀嚼して、映画の感想を口にしただけのことだった。しかし、周囲からの反応は少し違った。

「その番組を観て、事務所に入ったときからずっと仲のいいオードリーの若林くんが『異常だったよ』って言ったんです。『芸人が普通に映画の感想をしゃべって、あそこまで違和感がないのはすごい』って。普通は『ボケろよ!』ってなっちゃうと思うんですけど、僕がただ情報を話していることに対してはなんの違和感もなかったみたいで」

サトミツの長年の友人、オードリー若林正恭

芸人仲間であり親友でもある若林の言葉が胸に残った彼は、その後いくつかのバラエティ番組で、自身の趣味であるトイレの研究や掃除の豆知識を披露した。すると「淡々としゃべっているのがおもしろい」と少しずつトークが周囲から評価されるようになった。

自分の好きなことについてとことん調べ、その魅力を視聴者に伝える。いつしかそのスタイルは、彼の仕事のベースになっていった。

憧れだったニッポン放送に行きたくて、オードリーに付き添う

この記事の画像(全10枚)


関連記事

この記事が掲載されているカテゴリ

QJWebはほぼ毎日更新
新着・人気記事をお知らせします。