ロック雑誌の中に「声」を探していた|北山耕平インタビュー【第2回】(赤田祐一)

2020.5.16

文=赤田祐一


『クイック・ジャパン』創刊編集長・赤田祐一が創刊準備号で行った、編集者・北山耕平の歴史的インタビューの第2回。1975年~1976年、雑誌『宝島』の編集長を務めていた北山耕平が、時代の「声」を雑誌の中に閉じ込めるように、「法定文字から奥付のクレジットにいたるまで」目の届いた雑誌を作っていた。赤田は北山の編集に強烈に惹かれた。

雑誌において、文章よりも大切なものは「声」だ。文章は洋服のようにいろいろなものを着られるが、「声」はひとつだ。

※本記事は、1993年8月1日に発行された『クイック・ジャパン』創刊準備号(Vol.1 No.0)掲載のインタビューを分割、転載したものです。


前回の記事

頭の中で聞こえる「声」

北山 で、そこから出る方法は、そこが牢屋だって気がついた人間しか出口を探そうとしないということだよね。そうすると、それを気づかせる方法はどこにあるのかというと、「声」だよね。鍵を握ってるのは「声」だと思う。全体に流れている「声」、裏にある「声」だと思う。

それは、文章よりも、もっと重要なもので、どの意識からその「声」が出てるのかということが、たぶんすごく重要なことなんだと思う。俺がトム・ウルフ(※)とかいわゆる“ニュー・ジャーナリズム”(※)の人たちに感じたことというのは、一貫してその「声」があるってことだよね。どんなものを書くにしろ、ある種の「声」を持ってちゃんと書いてる。

※トム・ウルフ…「ニュー・ジャーナリズム」という言葉をはやらせた張本人。1960年代中頃から『エスクァイア』、『ローリングストーン』などで活躍し、その文章のポップ・スタイルは、一世を風靡した。テレビの実況放送をしているように、ある興奮状態をレポートすることが、天才的にうまい
※出来合いの言葉ではなくて、取材した生々しい言葉で、事実を組み立てるジャーナリズムのこと。自分の周囲で起きていることを、自分の言葉で書くことが、基本姿勢である

──「スピリット」みたいなことなんですか。

北山 「声」なんだよね。頭の中で聞こえる「声」。いわゆるしゃべる声、話し声とかそういうんじゃなくて、何かがしゃべってるように聞こえるものってあるんだよね。ある種の共通した意識から、その「声」は出てきていると思う。その「声」を出せるようになった人間だけが、そういう世界で、エンタテインメントができると思うんだよね。

──じゃあ、『ニューミュージック・マガジン』の人たちは「声」がわかってない……。

北山 違う、「声」がきらいだったんですよ。きらいだったんだと思う。生理的に。自分が「声」を出してると思っても、それがただの雑音(ノイズ)でもあり得るわけだよね、ある人にとっては。雑音としてしか聞こえない人もいるわけだよね。

ロックを雑音ととるか音楽と聞くかは、やっぱりその人によって違うでしょ。その人が育ってきた環境によっても違うし。等身大であろうとすればするほど、そういう反発ってのは出てくるよね。

その「声」に対する恐怖感というのは、ある種の人たちにとっては非常に大きい問題なんだ。そこでそういう「声」が、そんな世代から出てきちゃうと、困るって人だってたくさんいるでしょう。

──新左翼的な人たちですか。

北山 難しいところだよね。新左翼とロックンロールは一致しなかったからね、日本においては。悲しいことに。

──以前、渋谷陽一さんと北山さんが若者雑誌の対談で、『いちご白書』と『日大全共闘』のドキュメント映画の比較をしていました。その発言を受けて『ニューミュージック・マガジン』で、中村とうようや戸井十月が、北山さんを非難しました。『宝島』の連中は、頭の中だけで革命起こしてる、テレビ見て、テレビの奴隷になってるんだ、と言って。

北山 でも、どっちがはっきりしてたのかということは、やっぱり時代が答えを出すことだからね。もうそろそろ、はっきりしてきてるだろうという気がする。俺は、自分がやろうとしてたことは、間違ったと思ったことは一度もないし、いいことやってきてよかったなと思うだけであって、後悔は全然ないしね。

──北山さんがずっとおっしゃってた、マクルーハンとビートルズ *14 みたいな感覚ってありますね。あれは1980年代になって、ニュー・アカデミズムと新人類を生んだと思うんです。ああいうものと直結していたと思うんですけど。

※テレビとロックによって、あるバイブレーションを知ってしまった子供たちは、それまでの世代とはまったく意識のありようが変わってしまった、ということ。北山耕平の評論集『抱きしめたいービートルズと20000時間のテレビジョン』(1976年、大和書房)に、詳しい

北山 というか、世界的なスケールでそういうものを認識しようとする動きがあったことは確かなんだよ。ただ、自分が言ったことが、それと「直結して」と言うよりも、世界的な規模で同じことを考える人たちが、同時多発的にいたんだよね。

──ものの見方というか、パラダイムみたいなものが変換してきたと。

北山 そう。だから1960年代に起こった意識革命みたいなものが、世界にどうやって伝わっていったのかということの、日本における見事な例みたいなものがここにいるだけであって。それは、早いか遅いかの違いだけだったかもしれない。ただ自分としては、どんなものであれ「声」があるものにしたいと思うし、その「声」さえ残ってれば、時代は越えられると思うんだ、これからの時代はね。

あのとき何かが始まってたんだとすれば、ほんとにそれはずっとつづいてるし、あのとき終わろうとしてたものは、かなりこの10年、20年間で、ビューティフルな死に方をしていってるはずだし。何かを終わらせるのにすごく力があったし、何かを始めるのにも力があったという意味では、ロックとすごく似てると思う。

ただ、それがポップになっちゃって、どうなっていくかというのは、たとえば自分が作った文体みたいなものが『ポパイ』とか、いろんな雑誌を経て、一般化していったわけだよね。そういうのを見ていると、おもしろいけどね。

──複雑な気持ちですか。

北山 いや、複雑な気持ちとかじゃなくて、ひとり歩きしてるから。ただ、自分だったらこんなことは言わないのに、なんでここでこういうふうに言うんだろうなとか、そういうふうに思うことは、まま、あったよね。そろそろこの店、おしまいみたいだから、ちょっと動きながら……。車の中でつづけてもいい?

──いいですよ。

(北山氏のステーション・ワゴン車の中へ移動。伊豆の山道を、ドライブしながら、インタビューを再開する)

ロック・マガジンの中に「声」を探していた

『Quick Japan』(飛鳥新社)創刊準備号(1993年8月1日発行)。グラフィックス=羽良多平吉

北山 俺はやっぱり、ほんとに、ロック・マガジンというものが自分に与えた影響というのは大きいと思う。あの当時のね。60年代、『クロウダディ!』(※)とか『ローリングストーン』とか、そういう雑誌の中に、やっぱり自分は「声」を探してたんだと思う。それを持ってる人たちの文章を、すごく吸収していったんだと思う。

※1966年、当時17歳の若さでポール・ウィリアムスが創刊したロック評論誌。ロックを初めて真面目に批評することに試み、優秀なロック・ジャーナリストを生んだ

──英語は当時からかなりできたのですか?

北山 今だって、できるとは言えないんだけど、片岡義男(※)さんとつき合ってたせいもあるし、ロックの雑誌やってたせいもあって、外国人とつき合うことが多かったし。ロックの評論ってその当時、翻訳って限られたものしかなくてね。だから、一所懸命、探して読んでた。

※『宝島』2代目編集長。かつては北山耕平の遊び友達であり、先生だった。北山耕平(小泉徹)との共著『ぼくらのアメリカ切抜帳』(1976年、徳間書店)もある。「ロックとは新しい物の考えかたである」ということを、日本で一番早く理解し、紹介した人。現在は、小説家

ロックの英語みたいなものは、学校では教えないよね。そういうのは、自分で勉強するしかないし、歌詞覚えたりとかそういうのもするし。そういう中でしか英語は覚えていかないんだよね。英語っていうのは、道具だし、使い方によっては、すごく有効的に使えると思うんだ。うまく使えば、発想の仕方が増えるからね。

──大学(立教大学)の時代は、どうされてたんですか。学校はロックアウトの時代ですね。

北山 ロックアウトされてました、3年間ぐらいね。だから、アルバイトとかしてました。僕は2年目ぐらいのとき、片岡義男さんと知り合ってたから、片岡さんの仕事の取材の手伝いとかね、運転手やったり、本の整理やったり。それで植草甚一さんとも知り合った。

外国の文化的なものをどうやって日本に入れるかって考えてる人たちのかなりそばにいたもんで、影響をもろに受けて。大学のときというのは、やっぱり、ロックのお勉強みたいなところが非常に多かったんじゃないかな。あのとき、世界的な規模でロックのお勉強ってのが行われてて……理解しようとしなければ理解できないもんだからね。

それじゃなければ、ただの音楽だし。だから、ロックの中にある「声」が大切なんだよ。ボブ・ディランが持ってる「声」も、さきほど言った「声」と非常に共通してる部分があるし。だから、非常に早い時期に、その「声」みたいなものに、俺は気がついたんだよね。

──「声」というのは「スタイル」ってことですか。

北山 スタイルというよりも、「声」なんだよね。文章ってのは服みたいなもんでさ、いろんな服は着れるけど、「声」はひとつでしょ。「声」っていうのは、たぶん、汎人類的っていうか、ある種の人間が共通して持ってる一種の意識だと思うんだ。

それがあるって気がついたのが、多分、1960年代の後半頃、世界的な規模で若者文化(ユース・カルチャー)ってかたちで出てきたのであって。その人たちは、基本的には、いまだに変わってないと思うよ。それは自発的に自分で学習したものなわけ。

鍵は、その「自発的に」ってところなんだよね。誰かに言われて勉強したんだと、それは自分のものにならないわけ。それを知って、自分で自発的にそれを学ぼうとした人たちだけが、その「声」を自分のものにできたんじゃないかな。今もそうだと思う、できるんだと思う。その部分って、すごく、俺は重要だと思う。

カウボーイとインディアン

──片岡義男さんは当時『ロックの時代』(※)というロック・アンソロジー集を翻訳してましたね。珍しかったんですか、ああいう本が。

※ジョナサン・アイゼンが編集した1960年代ロックのアンソロジー集。『ローリングストーン』誌の名声を築いた初期のインタビューの数々が収録されている

北山 珍しかったですよ。ロックの評論を載せるような雑誌って、ほんとになかったし。『クロウダディ!』とか、いろいろ選んでたね。『ヴィレッジ・ヴォイス』(※)とか。片岡さんは『ヴィレッジ・ヴォイス』が好きだったみたい。

※ニューヨークで現在も刊行されている(1993年当時。2017年、プリント版の発行を停止。2018年、オンライン版での発行を終了し、現在は廃刊)。タブロイド判の週刊文化新聞

俺はやっぱり、自分がアメリカ行ったときに、片岡義男さんが見たアメリカと、北山耕平が見たアメリカというのが、対極にあるという認識を持ったね。自分は、「ロンサム・カウボーイ」(※)じゃなかった。結局、やっぱり、「アメリカ・インディアン」のほうに行っちゃったという感じで。インディアンとカウボーイと分ければね。

※『ワンダーランド』創刊号から連載された片岡義男の小説。シティ・ボーイにとって必要とされる「都市の見方」を書いている(『ロンサム・カウボーイ』1975年、晶文社*1979年、角川文庫。2015年、晶文社、改版)

──片岡義男さんと北山耕平さんの差異ということを考えてみたんです。どこが違ってるかみたいな。ひとつには、ドラッグに対する姿勢だったのではないかと思うんですが。

北山 違うと思いますよ、俺は。俺と片岡さんの大きな差っていうのは、白人とインディアンの違いくらい大きな違いだと思います。俺は片岡さんとあの時代、アメリカを一緒に旅行したいという意識を持っていたんだけど、結局、それは果たせなかった。

今思えば俺は、こういう言い方は非常によくないかもしれないけど、片岡さんと一緒に旅をしなかったことは、何か運命的なものが、やっぱりあったんだろうと思う。俺が片岡さんと一緒に旅をしていたら、「ロンサム・カウボーイ」の視点で、アメリカを見ただろうと思う。

そういう視点で俺がアメリカを見なかったことに関して、俺はすごく自分にとってありがたかったと思うし、そのことで、やっと、自分が何であるのかということを考えるきっかけになったから。それは、ドラッグに対する姿勢が違うとか、そういうんじゃないと思う。

──片岡義男さんは、はっきりとドラッグを否定されてますね。以前『かもめのジョナサン』(リチャード・バック、1970年)について書評を書いていて、自分はアスピリンの香りがするものはいやだ、もっと大地を踏みしめて生きるほうを選ぶのだ、という意味のことを書いてましたが。

北山 ドラッグに対する認識というものは、植草さん、片岡さん、俺という流れから言えば、やっぱり俺が一番ラディカルですよね。ただ、そのことに関して俺は、ぜんぜん後悔してないし、そこから得るものだって大きかっただろうと思う。その分危険もいっぱいあったし。

ただ、知りたいという欲求を殺すことはできない。結局片岡さんにしろ植草さんにしろ、アルコール文化の最後に出てきた人たちっていうふうに、俺は認識せざるを得なかった。その意味では、握手してきれいに別れましょう、というかたちでしかなかったしね。永遠に、お互い理解できない部分ってあるわけだから。その一点に関してね。

結局自分が70年代にアメリカ行ってみて認識してきたことは、あのとき『宝島』なんかで言ったことは、基本的な部分では間違っていなかったと思う。ただ、あの当時、みんながドラッグを体験しなきゃいけないというふうに思ってた部分があるんだけど、それはやっぱり、Everybody must get stoned!(みんなマリワナを吸わなくてはいけない!)という言葉がディランにあるけど、そういう影響だと思うよ。

今は、そうは思わない。その人によって、いろいろあるだろうなと思う。だから、片岡さんが、ドラッグに対して半分否定的な部分を持ってたことに関しても、今だったら俺は笑って済ませられるけど、あの当時は、俺は、自分としては純粋なつもりだったからね。筋は通さなきゃいけないと思った部分もあるし。だから、その部分は、難しいよね。

つづき(第3回)はこちら

記事一覧:北山耕平インタビュー「新しい意識、新しい新聞」

【第1回】ソフトな奴隷制を打ち破る編集
【第2回】ロック雑誌の中に「声」を探していた
【第3回】自分たちの新聞を作ろう
【第4回】自分の頭で考えて、自分の目で見て、自分の手で書く
【第5回】ニュー・ジャーナリズムには人生が凝縮されている


この記事の画像(全1枚)



  • 北山耕平・翻案『定本 虹の戦士』

    発行:太田出版 定価:本体1600円+税
    アメリカ・インディアンが信じつづけてきた、帰還と再生の物語。読み継がれて20年超のロングセラー、1999年刊旧版の増補決定版。オリジナル版に、北山耕平による新解説と新ブックガイド(15頁)を追加。“地球が病んで 動物たちが 姿を消しはじめるとき まさにそのときみんなを救うために 虹の戦士たちがあらわれる”――本文より
    http://www.ohtabooks.com/publish/2017/01/18000005.html

    北山耕平(きたやま・こうへい)
    1949年生まれ。立教大学卒業後、かつて片岡義男氏と遊び友達であったことから宝島社に入社。『宝島』第4代目編集長を経てフリーライター/エディターに。『ポパイ』『ホットドッグ・プレス』『写楽』『BE-PAL』『ART WORKS』『ゴッドマガジン』等の雑誌創刊に立ち会う。ベストセラーになった『日本国憲法』の企画編集に参加した。著書に『抱きしめたい』(1976年、大和書房)、『自然のレッスン』(1986年、角川書店*2001年、新装版、太田出版。2014年、ちくま文庫)、『ネイティブ・マインド』(1988年、地湧社*2013年、サンマーク文庫)、『ニューエイジ大曼荼羅』(1990年、徳間書店)、『ネイティブ・アメリカンとネイティブ・ジャパニーズ』(2007年、太田出版)、『雲のごとくリアルに』(2008年、ブルース・インターアクションズ)、『地球のレッスン』(2010年、太田出版*2016年、ちくま文庫)、訳書に『虹の戦士』(1991年、河出書房新社*1999年、改定版、太田出版。2017年、定本・最終決定版、太田出版)、『ローリング・サンダー』(ダグ・ボイド、1991年、平河出版社)、『時の輪』(カルロス・カスタネダ、2002年、太田出版)、『自然の教科書』(スタン・パディラ、2003年、マーブルトロン)、『月に映すあなたの一日』(2011年、マーブルトロン)等がある。

  • 雑誌『スペクテイター』最新号(vol.46)特集「秋山道男 編集の発明家」

    発行:エディトリアル・デパートメント 発売:幻冬舎 定価:本体1000円+税 
    spectatorweb.com

    『クイック・ジャパン』創刊編集長であり、本記事の執筆者である赤田祐一が編集を務める雑誌『スペクテイター』最新号、特集「秋山道男 編集の発明家」発売中。
    「若い時代というのは、自分を圧倒するものが目の前に出現すると、無条件で心酔したり、神格化してしまうようなところがある」
    赤田が、北山耕平と共に心酔した編集者のひとりであるスーパーエディター・秋山道男の総力特集。
    「あらゆるクリエイティブはエディトリアルだもんね」


この記事が掲載されているカテゴリ

Written by

赤田祐一

(あかた・ゆういち)1961年東京生まれ。立教大学社会学部観光学科卒。『スペクテイター』編集者。大学卒業後、飛鳥新社入社。『ポップティーン』編集部で仕事を教わる。その後、『クイック・ジャパン』『団塊パンチ』創刊編集長に。著書として、マガジンハウス『POPEYE』誌の草創期を記録したオーラル・バイオグ..

QJWebはほぼ毎日更新
新着・人気記事をお知らせします。