1966年に『さらばモスクワ愚連隊』でデビューして以来、幅広いジャンルで精力的に活動してきた作家・五木寛之。2022年9月30日には90歳を迎える日本を代表する大家の、初めてとなる“テーマ別作品集”の第1巻『五木寛之セレクション Ⅰ 【国際ミステリー集】』(東京書籍)が9月20日に刊行された。
本書は、直木賞受賞作『蒼ざめた馬を見よ』をはじめとした国際ミステリー3篇を所収。「ミステリー」という形式ならではのエンタテインメント性を備えつつ、読者を「現代史の闇」に接続してくれる名作がそろっている。
巻末には、五木文学のガイドになるような作家・佐藤優との特別対談解説も収録。大家だからこそ触れる機会を逸していた読者に、“はじめての五木寛之”としてお勧めできる一冊だ。
目次
五木寛之、初のテーマ別作品集
1966年に発表された『さらばモスクワ愚連隊』以降、さまざまなジャンルを横断しつつ幅広い執筆活動を展開してきた五木寛之。このたび、そんな彼の初の“テーマ別作品集”が刊行された。
『五木寛之セレクション Ⅰ 【国際ミステリー集】』と銘打たれた今回の第1巻目には、直木賞受賞作『蒼ざめた馬を見よ』のほか、『夜の斧』と『深夜美術館』の3篇が収録されている。さらに巻末には、『国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれてー』(新潮社)や五木との共著『異端の人間学』(幻冬舎)で知られる作家・佐藤優との特別対談解説が掲載されており、この3作品をはじめとする五木文学の魅力を紐解く絶好の解説となっている。

この令和の時代、五木寛之という作家はどのように位置づけられるのだろうか──。
これら3作品は【国際ミステリー集】という言葉が示すように、いずれも「日本」という枠組みからはみ出し、「ミステリー」のスタイルを取りながら、読者を「現代史の闇」にアクセスさせるものだ。
あらゆる名作に当てはまることのひとつに、いつ読んでみても“今日性”があるということが挙げられる。つまり、いつ手にしてもリアリティが感じられる。それが名作とされるもののひとつの条件だ。ここに並んだ3作品は、いずれもその条件を満たしている。
まるでスパイ小説のような『蒼ざめた馬を見よ』
第56回直木賞受賞作である『蒼ざめた馬を見よ』は、“ソ連の体制を痛烈に批判したある小説”をめぐる、恐るべき陰謀が描かれたものだ。題材としては巨大で重く、最初はとっつきにくい方もいるのではないかと思う。しかしページをめくってみれば、たちまちその手が止まらなくなるだろう。
物語の主人公は、とある通信社から企画記事の取材を依頼されたフリーのルポ・ライター。だがそれは表向きの話。実は彼はひとつの小説の原稿を手にするため、真意を隠して日本からソ連のレニングラードへと向かう。世界中に大きな衝撃を与えるであろう、その小説を手に入れるためにである。
本作を読んでいてまず思うのが、まるで「スパイ小説」のようだということ。主人公は真意を偽ってレニングラードに“潜伏”し、目的達成のために暗躍する。といっても彼は、派手な立ち回りを演じたり、目的のために手段を選ばぬ男というわけではない。ごく普通に街の人々と言葉を交わし、あくまでも穏便に事を運ぼうとする。まずは小説を書いた作家と接触しなければどうにもならないのだ。そして彼は気づかぬうちに、恐るべき陰謀に巻き込まれていくことになる──。
ある秘密を暴くために暗躍しているはずの者が、知らぬ間に大きな力に囚われてしまっているというのは、「スパイ」の活躍を描いた一部の作品の定石だろう。“大きな力”というのは、個人の手には負えない国家的なものだ。魅力的なヒロインも登場し、この一介のルポ・ライターのハードボイルドな物語を華やかなものにもするが、冒頭から終始、奇妙な違和感が拭い切れない。
“恐るべき陰謀”が描かれているのだから、やはり物語は恐ろしいところへと着地する。もちろん、その詳細にここで触れるわけにはいかない。ネタバレ回避のためではなく、この身を守るために……。
ある“過去”に囚われる男の姿を描いた『夜の斧』
1968年に発表された『夜の斧』は、愛する家族を持つ男が“過去”に囚われ、苦しむさまを紡いだ短編作品だ。現在と、主人公の男が回想するかたちで描かれる過去が、交差しながら物語は進んでいく。
主人公の男はかつてソ連の捕虜として、北満洲で収容されていた過去を持っている。明るい家庭を築き上げた現在の彼には、まるで無縁のように思える話だ。そんな彼のもとに、ある不気味な電話がかかってくる。彼の名を知る電話の相手は、暗号のように同じ問いかけを繰り返す──。
これまた恐ろしい作品である。主人公が振り返る過酷な抑留生活の描写は読んでいて苦しいものだが、本作の恐怖はそこだけではない。謎の電話のことでもない。それは、引き揚げから長い時を経て、できることなら忘れてしまいたい記憶を、たった1本の電話がよみがえらせてしまうということだ。これによってこの小説は、温かな家族に囲まれている現在の男と、それとは対照的であった孤独な過去の姿が浮き彫りになる。
戦争体験者にとっての戦争とは、敗戦してからも、引き揚げることができてからも、けっして終わらないのである。
『深夜美術館』の持つリアリティとダイナミズム
1975年に発表された『深夜美術館』は、これこそ重厚にして濃密なミステリー作品だ。
主人公は美術雑誌の副編集長を務める男。彼がたまたま出会い、交流を持つことになったひとりの女性を介して、日韓の文化財問題に鋭く切り込むものになっている。
本作の持つユニークさはいくつもある。ひとつは、主な舞台として登場するのが夜の銀座だということ。そしてもうひとつは、物語が「探偵小説」のように展開していくということ。主人公は周囲の力を借りて、ある謎に迫る。その情報交換の場が、華やかな夜の銀座でもあるというわけだ。さらに、作中に散りばめられたいくつもの不可解な点が、主人公と共に読者を歴史の渦に引きずり込むのである。
日韓の間に横たわる問題に言及するくだりは、フィクションでありながら、さながらノンフィクションのようでもある。圧倒的なリアリティと迫りくるようなダイナミズムが文章の細部から感じられるのだ。
本作で五木寛之という作家が訴えようとしているものを受け止めるには、かなりの気力と体力が要るだろう。しかし、だからこそなのか、「探偵小説」の姿を借りたエンタテインメント大作になっているのだ。幅広い読者層に開かれた作品である。
今、読むからこそおもしろい五木寛之作品
それぞれの作品の主人公が対峙するのは、今なお残る「戦争」の爪あと、歴史的な負の遺産だ。いずれもけっして明るい作品ではないが、「ミステリー」というだけあって、時折、背筋がゾッとするエンタテインメントだと断言できる。
冒頭でも述べているように、「名作」の条件は、それが一過性のものではなく、いつの時代においても有効であること。
五木寛之の作品はいつ読んでもおもしろい。いや、今読むからこそおもしろいのだ。40年以上の時を経ても新鮮であり、そして色褪せない。それを実証しているのが、『五木寛之セレクション Ⅰ 【国際ミステリー集】』なのである。
現代を生きるあなたは、本書が持つこの“今日性”から逃れられない。いや、ぜひ真っ向から挑んでみてほしい。
『五木寛之セレクション Ⅰ 【国際ミステリー集】』

著者:五木寛之
発行:東京書籍
発売:2022年9月20日
定価:1,980円(税込)
判型:四六判・仮フランス装
ページ数:368ページ
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五木寛之
(いつき・ひろゆき)1932年(昭和7年)9月30日、福岡県生まれ。生後まもなく朝鮮に渡り、1947年引き揚げ。1966年『さらばモスクワ愚連隊』で第6回小説現代新人賞、1967年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞、1976年『青春の門』(筑豊篇ほか)で第10回吉川英治文学賞を受賞。2002年、第50回菊池寛賞、2009年にNHK放送文化賞、2010年に『親鸞』で第64回毎日出版文化賞特別賞を受賞。著書には『朱鷺の墓』『戒厳令の夜』『風の王国』『蓮如』『大河の一滴』ほか、シリーズに『百寺巡礼』『21世紀仏教への旅』などがある。翻訳にリチャード・バック『かもめのジョナサン』、ブルック・ニューマン『リトルターン』などがある。
東京書籍の本
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