大阪生まれ、大宮育ち。すゑひろがりず「人気ゼロ」から15年目の大逆転<シリーズ大宮セブン#1>



「何があかんのやろ」「何もかもあかんねん」

——おふたりのこれまでについてはニューヨークさんのYouTubeチャンネルでも詳しく話されていましたが……。

南條 あのチャンネルには若手芸人のこと全部ありますからね。

三島 あいつらは本当にすごい。話聞くのんとかうまいですよねえ。

『ニューヨークのニューラジオ特別編』
2008年にトリオを組んだところからふたりの歴史は始まった
2008年にトリオを組んだところからふたりの歴史は始まった

——そもそも、NSC(吉本興業の養成所)の同期として出会って、最初は別々のコンビだったんですよね?

南條 三島はもともと優秀で。NSC在学中にM-1準決勝まで行ったバルチック艦隊というコンビを解散して、別の人と組んでたんです。その三島の新しい相方と僕が、バイトが一緒だったんですよ。そいつとしゃべってるときに「ちょっと1回、入れてくれへん?」って。僕も最初のコンビを解散して不安で、こっち(三島)はエリートやし、もうひとりはバイトで仲いいし、ちょうどええわと。ほんまに強い意志があったわけやなくて、軽い感じでした。

三島 僕も「ああ、ええんちゃう?」ってトリオになったものの、3年くらい劇場のオーディションに落ちつづけて。

南條 ひとり抜けて、このふたりで「みなみのしま」というコンビになったんです。

三島 そこから1年くらいふたりで漫才をやったんですけど、それでも劇場に受からなくて。30歳目前で、一度もですよ? 後輩たちはガンガン劇場に出てるのに。

南條 今でこそ年齢重ねておっさんが板についてきましたけど、そのころすでにふたりともこんな感じやったんですよ。人気もない、汚い、華ない。「何があかんのやろ」って三島の家でビデオカメラに撮ったネタを再生してみたら、ほんっまにおもんない。「こんなん、売れるわけない」って。

三島 何がどころか、何もかもあかんねんもん。自分ら観て、「こんなふたりが人を喜ばせられるわけない」って思いました。

——M-1の10年分の漫才を全部書き起こして、片っ端から試したというエピソードはそのころのことですか?

三島 そうです。書き起こしをやったんは、ビデオ観たあと?

南條 いや違う違う、その前の夏や。コンビになって、自分らに合う漫才の形を探してもがいていろいろやった。でも全然成果に結びつかなかった。で、自分らのネタの映像とテレビ出てる後輩を見比べて、「こんだけやったのに、なんにも得られてないやん」と絶望して「もう、 辞めや」と。

——解散まで考えた

南條 はい。でもその時点で劇場のオーディションにエントリーしてたので、じゃあ最後にそれだけ出て、あかんかったら解散しようって話したんですよ。でも漫才をやる気力もない。そこで、その数カ月前に地下ライブで、本当にお遊びというかノリでやったショートネタ「狂言風クリスマス」を思い出したんです。あのネタは今までで一番ウケてたし、一緒に出てたミルクボーイの駒場(孝)さんも「これ本ネタにしたら」って言ってくれてた、と。「変なネタやけど、最後にやってみよか。そんであかんかったら終わりな」って。

三島 で、やってみたらめっちゃウケて、そのまま初めて劇場に出演できたんです。「こっちに全振りしよう」って、その2週間後には着物を買ってました。もう漫才になんの未練もなく。

南條 今思ったら僕は、それでもまだ漫才したいって気持ちがあった。考え方が保守的なんで、ギリギリまで「漫才も残しときたいねんけど」って感覚だったんです。でも三島はもう「いやいや着物着よう、鼓買おう」って。

「伝統芸能風」という形を見つけるまでの道のりを「地獄ですよ、ほんっとに地獄」と繰り返した三島
「伝統芸能風」という形を見つけるまでの道のりを「地獄ですよ、ほんっとに地獄」と繰り返した三島

お笑いなんだから、楽しいほうがいい

個を消し、強烈なキャラをまとったことでようやくふたりの歯車は回り始めた。2014年、みなみのしまは大阪の劇場卒業に合わせて、東京へと活動の場を移す。上京直後は、「めちゃくちゃよくもないけど、まあ悪くない」状態だった。

——2014年、2015年の「キングオブコント」でみなみのしまは準決勝まで進出して、そのころはテレビにもたびたび出演していましたよね。

南條 東京に来たタイミングでパッと注目されて。

三島 いろんな番組でネタもやらしてもらいました。でも新鮮味がなくなったのか、ある程度のところでパタッとオファーが来なくなったんです。

南條 ネタ以外で呼ばれるところまでいかない。とにかくすごいネタ、珍しいネタを編み出しつづけるしかないんかなあ、と出方がわからんようになってました。 ……で、その時期に僕ら大宮に行くようになるんです。

南條庄助の「助」の字は上京したころに変えた。「ネットで字画調べてみたら本名があんまりよくなくて、この字はすごいよかったんで」
南條庄助の「助」の字は上京したころに変えた。「ネットで字画調べてみたら本名があんまりよくなくて、この字はすごいよかったんで」

——おふたりは埼玉にある「大宮ラクーンよしもと劇場」(通称:大宮吉本)所属の「大宮セブン」の一員ですが、そのころから大宮での活動が増えたということですね。

南條
 はい。大宮ってね、すごくちっちゃい営業がいっぱいあるんですよ。

三島 郵便局とか、「本当にこんなカレー屋の真ん中でやんの?」とか(笑)。

南條 会議室とかな。そういう営業に行き始めて「この芸風で食っていくんやったら、目の前の人をもっと笑わさなキツいぞ」って感じたんですよね。それで、コンビ名ももっと和風にわかりやすくしようと「すゑひろがりず」に変えて、ネタを老若男女笑えるものにして……って、徐々に形がマイルドになっていったんです。思えばそれまでは「狂言風の声さえ出してればええやろ」って、まだ少しとんがってた。でもおじいちゃんとか子供とかはそんなんでは笑わないんで。

三島 全然やり方が変わりましたもん。本当にちっちゃいことなんですけどね。たとえば、それまではちょっと怖い感じで登場してたんです。

南條 伝統芸能らしさを出そうとして、静かな感じで出て行ってた。

三島 それ、賞レースだと目立つんですけど。

南條 ショッピングセンターでそんなヤツ出てきても笑わないですよね。

三島 だからもうパーンと明るく出て行く。

南條 そうそう。お笑いなんだから、そら楽しいほうがいいですよ。

三島 構成も、以前は15分の出番をもらったら「つづきまして~」とか言いながら、コントを4つみっちりつないでたんですよ。今はもう、ネタなんて実質2分くらいしかやらないです。最初はお客さんほぐすのに5分使います、ネタやります、で最後プレゼントあげたりして。

南條 シールあげたりな。

三島 くまだまさしさんとかとご一緒すると、本当にすごいんですよ。「うわ、奥のばあちゃん爆笑してるやん」っていうのを生で観て震えまして。くまださんに営業について相談してみたら「まず物をあげることだよ」って。

南條 ははははは! 「絶対喜ぶからね」ってな。2016、17、18年の3年間くらいは熟成期というか……なんでしょうね、不安とか葛藤というよりは勉強の、準備の時期やったかもしれないですね。

三島 本当に鍛えられたなあ。

「あのころはかなり営業に特化した」と2016年から2018年を振り返ったふたり
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一生営業をやるために、一度M-1で結果を


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釣木文恵

(つるき・ふみえ)ライター。名古屋出身。演劇、お笑いなどを中心にインタビューやレビューを執筆。

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