今とは違う世界を思い描くこと
テレヴィジョンの「マーキームーン」を耳にするたび、思い浮かぶものがある。
ひとつは、ナンバーガール/ZAZEN BOYSである。ライブが始まり、メンバーがステージに登場する際のSEとして、しばしば「マーキームーン」が響き渡る。そして、もうひとつ思い浮かぶのがマームとジプシー『sheep sleep sharp』(2017年)だ。
思い返してみると、『sheep sleep sharp』は不思議な作品だった。
青柳いづみさんが演じる「私」は、幼くして父を失くし、母はずっと意識をなくしたまま入院しており、ひとりきりで暮らしている。彼女は世界に絶望し、「自分の手ですべて終わらせる」と、登場人物をひとりずつ殺してゆく。舞台がエピローグを迎え、「マーキームーン」が流れるなか、殺害シーンがリフレインされる。ただし、登場人物を殺害するのは青柳いづみが演じる「私」ではなく、谷田真緒が演じる「少女」だ。「マーキームーン」は途中で中断されることなく、舞台上に流れつづける。長い曲の間に、殺害シーンがもう一度リフレインされる。そこで少女は、登場人物を殺すのではなく、そっと抱きしめる。舞台に立つ「私」は、「実は、誰も、死んでいない?」と口にする。
人を殺すシーンを描いてきて、最後の最後に「実は、誰も死んでいない?」と語る。こうして文章に書き出すと、ただ突拍子もない話に思われるだろう。それは確かに突拍子もない言葉ではあったけれど、そのエピローグはとても鮮やかな光景としてぼくの記憶に残っている。どうしてそんなシーンを描いたのか、藤田くん自身もきっと、あの当時は説明がつかなかったのではないかと思う。でも、あれから3年が経ち、はっきり見えてきたものがあるらしかった。
「『cocoon』っていう作品は、物語上はサンしか生き残らないよね。だから舞台上では、他の登場人物が死んでいく場面を描くんだけど、演劇を上演しているのは今生きてる人たちじゃないですか。物語の中では死ぬんだけど、カーテンコールでは立ち上がって挨拶をする。いくら死を扱っていても、見えてくるのは生しかないってことが演劇の難しさでありおもしろさだと思う」
2013年の『cocoon』も、2015年の『cocoon』も、最後には青柳いづみさんが演じるサンだけが生き残る。立ち上がった彼女は、「繭が壊れて、、、わたしは羽化した、、、/羽があっても、、、飛ぶことはできない、、、/だから、、、/生きていくことに、、、した、、、/生きていくことに、、、した、、、、、、」と語り、舞台は終幕を迎える。3月に沖縄を訪れたころから、藤田くんはしきりに「やっぱり、生きていくことにしたでは終われない気がする」と語っていた。
「つまり、沖縄戦っていうのは、ほんとうにあったことですよね。それを物語として伝えるために、ひとりの少女だけが生き残ったっていう話を今日さんは描いて、ぼくも舞台化してきたんだけど。でも、それはほんとうにあった話をモチーフにしているわけで、そこでは『ひとりの少女が生き残って、今、生きているんです』みたいな話ではないわけだよね。だから、『cocoon』を舞台化するのであれば、サンひとりが生き残ったことを描くだけじゃ駄目なんだろなと思い始めたんです。他の誰かも生きたかもしれないし、30代になって、60代になって、90代になってあのころのことを話したかもしれなくて。そういう可能性だってあったはずなのに、ひとりの少女のモノローグとして、きれいな話として終わらせてしまうことに違和感があるんだと思う」
藤田くんの話を聴きながら、どうしてわたしたちはフィクションを必要とするのだろうかと考えていた。
『cocoon』はひめゆり学徒隊に着想を得て描かれた物語だ。沖縄戦も、ひめゆり学徒隊の悲劇も、事実として存在している。その揺るぎなさは、わたしたちが今、このようにして生きていることと近しいことだと言える。わたしたちひとりひとりが、それぞれの境遇で生まれ育ち、それぞれの生き方をして、今この瞬間まで生き延びている。それは事実として、そのように存在している。
その事実から目を背けることは、ただの現実逃避だ。でも、事実を見据えながらも、今とは違う時間のことを想像することだってできる。こうならなかった世界のことを、今とは違う世界のことを、わたしたちは想像することができるはずだ。世界がどんなに混沌としたって、みだりに絶望することなく、今とは違う世界を思い描くことができる――この2カ月はずっと、その可能性のことばかり考えて過ごしてきたような気もする。
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